冒険大航海
★ポルトガル バーソロミュー・ディアス船長
1488
“喜望峰”を発見
大航海物語★

Portugal
バーソロミュー・ディアズ

navegnadores portugueses
barolmeu dias 1488

ポルトガル 1945/1/29 発行
PORTUGAL
カラベル船


ポルトガル 1960/8/4 発行

LIBERIA GUINEE
アフリカ南端が
喜望峰

リベリア 1928 発行
バーソロミューの航路地図

ギニア 1984 発行 小型シートより

バーソロミュー・ディアズは1487年ポルトガル国王からプレスター・ジョンの国へ海路到達する事を命ぜられ、アフリカ西海岸を南下、アフリカ南端を回りましたが、1488年乗組員の反乱にあって引き返し帰国しました。この時、アフリカ南端の岬を「嵐の岬」と名付けました。これが後に「喜望峰」となりました。
バーソロミュー・ディアズ (1450頃〜1500)
 Barthrlomue Diaz

バーソロミュー・ディアズはポルトガル・リスボン出身で、ディアズ家は父祖以来エンリケ航海王子に仕え、祖父”ジョアン”はバハドール岬に到達、父”ディニス・ディアズ”は1445年ベルデ岬に到達していました。

バーソロミュー・ディアズはサン・クリストファー号(San Christovao)の航海長を勤めた後、1481年にディオゴ・デ・アザンブージャ(Diogo de Azambuja)のゴールドコースト(黄金海岸:現ガーナ)遠征に参加しました。そして、ポルトガル国王ジョアン2世の命により、エチオピア方面に有るという伝説の「プレスター・ジョンの国」と”インディアス”への航路を求めて、1487/8月に3隻のカラヴェル型帆船(50トン2隻と補給船:兄弟のペロ・ディアス(Pero Dias)船長)でアフリカからインドへの探検航海へ出帆しました。






バーソロミュー・ディアス船長
1488
“喜望峰”を回航、到達・発見

RSA
バーソロミュー・ディアズ
カラヴェル船隊

上陸してパドラを建立
航海後に出版された”マルテルス”の古地図
アフリカの南端に喜望峰を追加している地図

1488 喜望峰発見 500年記念 1988
南アフリカ(RSA) 1988 発行
UGANDA
マルテルス世界地図の全図、1490

1492 コロンブスの新大陸発見500年記念 1992
ウガンダ 1992/7/24 発行

これまで”ディオゴ・カン”が1482年に到達していた最南端のナミビア大西洋岸”クロス岬”を越えて航海し、コンゴ河を過ぎ、1487/12/8にナミビアのウォルビス湾を発見、「O Golfo de Santa Maria da Conceicao」と名づけました。そして、オレンジ川を過ぎて、南緯29度付近の現:南アフリカ共和国のポート・ノロス(Port Nolloth)付近から、現:南アフリカ共和国西岸のセント・へレナ湾に到達後に、暴風のため13日間漂流し、海岸を離れていたので、南東から東に転進しましたが陸地が見えず、さらに北に進路を変え、1488/2/3フレッシュ湾(アングラ・ドス・バケイロス、現:南アの東ケープ州”Great Fish River”説有)に到達(モッセルベイ説有)しました。知らぬまにアフリカ南端を東に回航していたわけで、アルゴア湾のセントクロイ島(St Croix Island、Algoa Bay、現:ポート・エリザベス付近)に上陸しました。
その後、あまりの苦難の連続の航海に、乗組員が反乱を起こしましたので、それ以上進む事が出来なくなって帰途につきました。途中でアフリカ南西端に立寄り、1488年5月に風と波が高いので「嵐の岬」(カーボ・トルメントソ:Cabo Tortmentoso)と命名して、帰航の途につき、1488/12月リスボンに帰港しました。それは実に、16ヵ月と17日に及ぶ(約2,030kmの未知のアフリカ海岸沿いの航海でした。 国王ジョアン2世に報告すると、この岬を「喜望の岬」”カーボ・ダ・ボア・エスペランサ”(Cabo da Esperansa)と
喜望峰を回航
変更・命名しました。英語では”ケープ・オブ・グッド・ホープ”(Cape of Good Hope)ですね。

1487/12/8にバーソロミュー・ディアスが航海中にウォルビスベイ(Walvis Bay)があるウォルビス湾を発見し「O Golfo de Santa Maria da Conceicao」と名づけました。その後、オランダが1793年に占領、オランダ領と宣言して「ウォルビス(オランダ語で鯨)」と名付けました。

1488年にはアフリカ西岸を探検航海中に難破・沈没して船を失ったドアルテ・パチェコ・ペレイラ船長を、喜望峰からの帰りにプリンシペ島で救出しました。

その後、ヴァスコ・ダ・ガマがインドへの航海の命を受けると、彼もその準備に参画し、ダ・ガマの航海にも加わり、1497/7/8 リスボンを出帆しました。ダ・ガマの水先案内をヴェルデ岬までつとめて、ダ・ガマの船団と分かれ、エル・ミナへと航海して無事にリスボンに帰港しました。

1500/3/8には”カブラル”の13隻の大船団に船長として参加、弟ディオゴ・ディアズと共にリスボンからインドへ向け出帆しました。その後、たびたび暴風雨に見舞われ船団は散り散りとなり損傷しましたが、偶然にもブラジルを発見。1ヵ月後インドへ向いましたが、南大西洋上で暴風雨に遭遇してしまい、4隻を喪失しバーソロミュー船長もこの時(1500/5/29説有)に亡くなりました。50才で海難死となりました。

カラヴェル船
  Portuguese caravel ship
、15世紀中頃に登場
船 型 外洋航海用の木造小型カラヴェル型帆船 カラヴェル船

Caravela Latina
帆 柱 2〜3本マスト、ラテンセイル(三角帆)で操舵性が向上
全 長 20〜30m、経済性、速度、操舵性、汎用性に優れる
全 幅 全長と全幅の比は3:5:1
重 さ 50〜200屯
喫 水 小型で浅い喫水〜沿岸の浅瀬や河川に進入が可能
呼び名 カラベル・ラティーナ(初期):ラテン帆(三角帆)
カラベル・レドンダ(後に登場):四角帆、3本マストで
フォアセイル・メインセイル:四角帆、リアセイル:三角帆
特 徴 高い船首楼・船尾楼は無
進 水 15世紀にポルトガルのエンリケ航海王子の命で開発

参考HP〜
喜望峰の地図
バーソロミュー・ディアズの航海地図        2004/4/22、07/2/3、09/12/25、10/4/28、12/6/21






第2次インド遠征艦隊
1500、喜望峰で遭難
バーソロミュー・ディアズ船長

PORTUGAL
バーソロミュー・ディアズ

ポルトガル 1990-94 発行





南アメリカ
CABO VERDE
航海地図
カンティーノの古地図、1502

縦の赤線はトルデシリャス条約
カーボヴェルデ 1968/4/22 発行
アフリカ

ANGOLA
カブラルの船隊

1468 カブラル生誕500年記念 1968
アンゴラ 1968/4/22 発行
CISKEI
アフリカ最南端の古地図
喜望峰で遭難

シスカイ 1991/5/11 発行

1500年にバーソロミュー・ディアズ船長は、ペドロ・カブラルの第2次インド遠征艦隊(13隻, 1500/3/08-1501/6/23、4隻が帰港)に参加して、ポルトガルのリスボン港を出帆しました。

・ディアズ船長(50才)の大航海:〜
1500年
03/08、マヌエル1世の命により、テージョ河々口リスボン港ベレン周辺に13隻が集結
03/08〜09、13隻がリスボンを順次、出帆
03/14、カナリア諸島最大の島グラン・カナリア島(スペイン領)沖を通過
03/22、カーボヴェルデ諸島
     ルイス・ピレス船長の船がヴェルデ岬で破損し船隊を外れ、リスボンへ帰港
03/23、カーボヴェルデを出帆後、
     ヴァスコ・デ・アタイデ船長のナオ船を見失う
04/09、赤道を通過
04/21、海藻(かいそう、Seaweed)を見つける
     ブラジル望見
04/22、ブラジル(嵐で漂着?)バハイア州のモンテ・パスコウル
     (Monte Pascoal)に到達・上陸
04/23、12隻が集結・上陸
05/01、カブラル総司令官が天文方に場所の特定を観測させ、
     トルデシリャス条約線の東と確認、ポルトガル領を宣言
05/02、急遽、カブラルが補給船を発見報告で帰国させる説有
ブラジル
05/03、現:バイーア州ポルト・セグロ(Porto Seguro、Bahia)出帆
     (パイナップル、グアバ、マンゴウをインドへ持ち込む)
     ガスパル・デ・レモス船長の補給船が火災で船隊を外れ
     リスボンへ帰国してブラジル発見を報告
05/24、喜望峰を望見するも、大嵐に遭遇、
     ディアス船長他3隻の計4隻を失い、艦隊は7隻となる
ディアス船長は、1500/5/29に遭難したものとみなされました。
その後、艦隊はインドに到達して、
嵐の岬(喜望峰)で遭難
07/21、リスボンに4隻と途中で再会した船2隻がリスボンに帰港しました。

参考HP:〜
ガマとカブラルの航海地図
カブラルのブラジル到達の航海地図トルデシリャス条約の境界線を表示)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      10/11/11、2017/2/26
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