★イギリス
ウィリアム・ホッジス
1774
タンナ島に上陸

大航海物語★

NEW HEBRIDES
ウィリアム・ホッジス(画家)
クック船長の第2回探検(1772-75)
レゾリューション号に乗船、ニューヘブリデス諸島に到達
タンナ島のスケッチを描く

ニューヘブリデス 1974/8/1 発行


SOUTH GEORGIA 
ウィリアム・ホッジス
イースター島の風景画、(モアイ像)
 サウス・ジョージア諸島 2010 発行

Norfork Island
レゾリューション号

ノーフォーク 1974/10/8 発行
COOK ISLANDS
キャップテン・クックと現地人

クック諸島 1968/9/12 発行


  NEW HEBRIDES     
クック船長の(ヴァヌアツ)航海地図 クック船長の呼名 現在
レゾリ

|シ
ョン
←オーロラ島
←レパース島
←ウィットサンチド島
←アンブリャン島
←パアアマ島
←アピー島
←サンドィッチ島

←エロマンゴ島
タンナ島
←アンナトム島
←マエオ島
←アオバ島
←ペンテコスト島
←アンブリャン島
←シェパード諸島
←エピ島
←エファテ島

←エロマンガ島
←タンナ島
←アネイチュム島
1774 クック船長航海200年記念 1974
ニューヘブリデス諸島 1974/8/1 発行

ロンドン生まれのホッジスはイギリス王立芸術協会で絵を学び、クック船長の第2回探検航海に画家として参加し、ケープタウンやタヒチ、ニューヘブリデス諸島のタンナ島、イースター島などの各地に上陸して珍しい風物や風景画を描きました。帰国後にクック船長が発表した航海日誌に挿絵として掲載され、好評を博しました。その後にインドに渡り6年間滞在し、ロシヤに旅行しました。そしてロンドンで展覧会を開催しましたが、折悪しくフランス革命に対する対仏大同盟が結成されて、戦意高揚の時期に反する展覧会だとして、見に来た王子が激怒して画家の生命を奪われました。
ウィリアム・ホッジス (1744/10/28〜1797/3/6)
 William Hodges

画家ホッジスはロンドンで生まれました。王立芸術協会(The Royal Society of Arts)のウィリアム・シップレイ(William Shipley 1715-1803)とリチャード・ウィルソン(Richard Wilson 1714-1782)に師事し、演劇の劇場画家をして暮らしていました。

ロイアル・ソサイエティにクック船長の第2回探検(1772-75)に画家として参加を命じられ、レゾリューション号に乗船しました。喜望峰のテーブル湾(Table Bay)、タヒチ島(Tahiti)、イースター島(Easter Island)、南極(Antarctic)などの風物や現地人の絵画を描いて持ち帰りました。クック船長が航海日誌を出版した時の挿絵に使用されました。帰国後に大きな油絵の風景画を描き、スケッチや水彩画にはエングレービング(engraving)を施したり、光と影の鮮明な風景画を描き上げ、海軍省(Admiralty)から給与を受け取りました。

ホッジスのレゾリューション号大航海(1772〜1775):〜
1772年:〜:
07/03、クック船長のレゾリューション号がプリマス港(Plymouth)に到着、
     アドヴェンチャー号トバイアス・フルノー船長と合流
     レゾリューション号に海軍中尉チャールス・クラーク(Charles Clerke)が乗船
07/10、ウィリアム・ウェールズがレゾリューション号に、ウィリアム・ベイリー(William Bayly)が
     アドヴェンチャー号クロノメーター時計を持参して乗船。
     ジョン・エリオットとヴァンクーヴァーが14才で最も若い乗組員で乗船
07/13、合流した両船がイギリス・プリマス湾(Plymouth Sound)を出帆
07/23、スペインのフィニステレ岬(Cape Finistere)沖を航海
07/29、マデイラ諸島のフンシャル港に到着
08/13、ヴェルデ岬諸島、サンチャゴ島ポルトプラヤ湾(Porto Praya Bay, Santiago)に投錨
08/15、サンチャゴ島を出帆、アセンション島を見ないで航海
09/08、順風に乗って南下航海中、熱帯鳥を見かける
10/01、両船は喜望峰へと航海
10/29、アフリカ南部西岸を望見
10/30朝、ケープタウンのテーブル湾(Table Bay)に投錨
11/23、ケープタウンを南へ出帆、喜望峰を望見
     南極海(Antarctic Seas)へと航海
11/24、南の南緯60度以南の南極海(Antarctic Seas)へと航海
12/11、マストも帆も全てが氷に覆われる、
     巨大な氷山(ice islands)の間の航海が続く
▼1773年:〜:
01/01、月初から南極海を、未知の南方大陸を求めて東へと航海
01/17、南緯66度33分以南の南極圏に初めて突入
     画家ホッジスは南極の風景画を描く
01/18、67度15分で行く手を氷山に阻まれ、荒天となる
02/03、2度目の南極圏突入で、
     南緯71度10分(最南)、西経106度54分に到達
02/08、両船がお互いを見失う(=3月一杯)
02/13、ジェンツー・ペンギンの群れを氷山で見かける
02/16、天文学班が惜しくもオーロラを見逃す
02/24、3度目の南極圏突入で、61度 52分に到達
02/26、アドヴェンチュー号は流星かと思う光を北北西の空に発見、
     次第に巨大なオーロラ(Aurora)となって南西に流れる
02/28、嵐が終日吹きすさぶ中、氷山の間を航海
03/10、大時化となり、飲料水が欠乏しだす
03/11、掌帆長助手ラーダン(Solomon Rarden Boatswains Mates)が
     フォアーカッスルでフェントン(Thomas Fenton)が吹き飛ばされて
     落ちるのを幸運にも受け止めて負傷
03/15、雌羊2匹と雄羊1匹が生まれたので暖かい寝床を準備
03/17、ニュージーランド方面へと転舵
03/25、ニュージーランドの山々を望見、17週と3日後に帰ってきたと記録
03/26、ニュージーランドのダスキー湾(Dusky Bay)に到着、クック船長は、この2回目の探検で、この入江を探検するのに2か月を費やし、そこを港として用いて作業場と観測所を設けました。ニュージーランドで最初に醸造されたビールは、この時にクックの隊員によって醸造されたといわれており、クックは、また、この入江で多数の現地人マオリと友好的な関係を結びました。
04/01、レゾリューション号はダスキー湾に投錨、燃料用に木を切る
04/02、ダスキー湾でアザラシ狩りをする
04/06、鵞鳥狩りをした所をダック・コーヴ(Duck Cove)と命名
04/18、水汲み川の上流をフォスター湖(Lake Forster)と命名
05/01、ダスキー湾を出帆、クイーンシャーロット海峡(Queen Charlotte Sound)に向かう
05/07、アドヴェンチャー号はクイーンシャーロット海峡に到着
05/17、レゾリューション号がクイーンシャーロット海峡のシップ・コーヴ(Ship Cove)に到着
05/19、両船はクイーンシャーロット海峡シップ・コーヴで合流、
     ニュージランドを再度探検航海
06/26、ニュージーランドを出帆
07/01、両船は未知の南方大陸を求めて南太平洋を航海
08/02、1767年カートレット艦長発見のピトケーン島に接近するも島影は無く、熱帯鳥見かける
08/11、ツアモツ諸島に接近
08/15、マエティア島(Mehetia)を望見
08/16、朝タヒチ島を視認・上陸、アドヴェンチュー号の壊血病患者が30人となり、
     レゾリューション号から13人を支援に派遣
     画家ホッジスはタヒチの風物や風景画を描く
08/21、タヒチ島マタヴァイ湾(Matavai)を出帆
09/02、フアヘイナ島(Huaheine)上陸
09/07、ライアテア島(Raiatea)上陸、豚400匹購入
09/21、ソサイエティ諸島を出帆、
     その後、トンガやタヒチへ航海
10/01、1643年にタスマンが望見してアムステルダム島と呼んだトンガ諸島へと航海
10/02、トンガ諸島のエウア(Eua)上陸、非武装の住民から友好的な出迎えを受けて
     フレンドリー諸島(Friendly Islands)と名付ける
10/03、トンガタプ島(Tongatapu)に上陸、ハアパイ諸島を探査
     画家ホッジスはトンガの風物や風景画を描く
10/08、トンガタプ島を出帆
10/22、ニュージランドを視認、多数のカヌーが寄ってくる
10/23、アドヴェンチャー号を見失う
10/24、クック海峡へ
10/30、ウェリントン入江(Wellington)を発見するも逆潮で入れず
11/02、近くのシップコーヴ(Ship Cove、Charlotte Sound)と呼んだ所に投錨
11/16、アドヴェンチャー号を探してピンネスで東の湾を調べ、小高い丘へ上がって見る
11/25、レゾリューション号はウェリントン(Queen Charlotte Sound New Zealand)を出帆
12/16、アドヴェンチャー号は出帆
12/21、レゾリューション号は南極圏(Polar Circle)に突入
▼1774年:〜:
01/01、レゾリューション号は南極圏を航海
03/13、1522/4/5にオランダのロッヘヘーンがイースターの日に発見した
     ラプ・ヌイ島に到達、この記録されている発見年は誤りで
     「1722年」のイースターの日(4/5)でした
03/14、イースター島(Easter-Island、Hanga-roa bay, Punta Roa)に投錨、
     画家ホッジスはイースター島の風景画を描く
03/17、イースター島を出帆
03/19、海兵隊長エッギューム中尉(John Edgcumbe)の告発で
     ウェッジバロー隊員(William Wedgeborough Private)を
     「酩酊の罪」で鞭打ちの刑12回
03/30、ポリネシアのマルケサス諸島(Marquesas)へ向かって西へ転舵
04/01、マルケサス島へと航海
04/07、1595年にメンダーニャが発見したマルケサス島を望見、
     最初の島をフッド島(Hoods Island=Fatu Huku)、
     次をサンペドロ島(St Pedro=Motane)、
     ドミニカ島(La dominica=Hiva Oa)、
     セントクリスチャン島(St Christina=Tahuata)と命名
04/19、パリサー諸島(Palliser's Isles)と呼んだ4島を望見、
04/26、タヒチ島を出帆、ニュージーランドへと向かっていると
     159艘の双胴カヌーと小型カヌー70漕がデモ航海で湾内に集まってきた
05/15、フアヘイナ島(Huaheine)に到着
05/25、ライアテア島(Raiatea)に到着
06/04、ライアテア島出帆
06/16、クック諸島に到達、上陸
     パルマーストーン島(Palmerston Island)を発見し命名
06/21、ニウエ島(Niue)に投錨、サヴェイジ島(Savage Island)と命名
06/26、さらに島々を望見、カヌーが寄ってきて
     1643年タスマン発見ノムカ島(Nomuka)の存在をを知らせる
06/27、1643/1/24にタスマンが発見ロッテルダム島と命名の
     トンガのノムカ島に到達上陸
07/01、トンガのカオ島(Kao)に到着
07/02、フィジー諸島ヴァトア島(Vatoa)を望見
07/13、フォスター(Johann Forster)が「プリマス出帆後、苦しい航海が2年となる」と記録
07/17、キロスのエスピリトゥサント島を望見、
     ニューヘブリデス諸島(ヴァヌアツ)に到達
クック船長の一行がタンナ島に上陸、ウィリアム・ウェールス、ウィリアム・ホッジス
07/22、ヴァヌアツのマラクラ島(Malekula)に上陸
07/29、ヴァヌアツのエロマンガ島(Eromanga)を出帆
08/05、ヴァヌアツのタンナ島(Tanna)の噴煙をあげる
     ヤスー火山(Mount Yasur)を視認、上陸
08/27、画家ホッジスはタンナ島(Tanna)の風物や風景画を描く
     タンナ島を出帆、その南端を回航、北西のエロマンガ、エファテ島、
     マラクラ島を回ってブーゲンヴィル海峡(Bougainville Strait)抜けてからフツナ島
     (Futuna)では無くてヴァヌアツのウェスト・フツナ島(West Futuna)へと東へ航海
09/01、マロ島(Malo)とエスピリトゥサント島の東海岸沿いに、多くの小さい島々の周りを
     航海してヴァヌアツの探査を終えて、南へと向かって航海
09/20、ニューカレドニア島(New Caledonia)のグランドテール島(Grande Terre)に上陸、
     スコットランドのラテン語読みニューカレドニア島(New Caledonia、
     新スコットランド)と名付ける、画家ホッジスはニューカレドニアの風物や風景画を描く
09/24、松の木や灌木が生い茂っている島を見つけてボタニー島(Botany Isle)と命名
09/30、ニューカレドニア島付近の探査を終えて出帆、南方へと航海
10/10、ノーフォーク島(Norfolk Island)を発見、上陸して命名、
     ノーフォーク松を見つけたので、切り倒してマスト用に船積み
10/11、マオラン(New Zealand flax)を見る、夕刻に出帆
10/17、ニュージランドのエグモント山望見、シップ・コーヴ(Ship Cove)上陸
11/05、ピンネス船でクイーンシャーロット海峡付近を調査
11/10、パリサー提督(Sir Hugh Palliser 1722-1796)に因んで命名
     の北島パリサー岬(Cape Palliser)を出帆、
      NZ南島クイーンシャーロット海峡キャンプベル岬(Cape Campbel)へ
11/19、嵐で船が大揺れで船体が40度も傾く
11/27、順風に乗って南から東へ転舵、マゼラン海峡へ向かう
12/17、太平洋を横断して、ついにフェゴ島(Terra del Fuego)西岸を望見
12/21、フェゴ島に上陸、
12/23、ボートとピンネス船を出して付近を調査、狩猟隊がガチョウを獲得
12/25、カヌー9隻のヒゲの無い現地人と遭遇、船に招いてナイフなどを贈り、ロースト鵞鳥、
     パイやワインなどを御馳走してクリスマスを祝う
12/26、乗組員に鵞鳥スープとロースト鵞鳥、パイやワインなどを振舞い陽気に騒ぐも酩酊で
     喧嘩が始まり、酩酊者全員を岸に追放、翌日スープに当たって寝込むものが続出
12/27、陽気に騒いだ所をクリスマス・サウンドと命名して岸のテントと木材を収容して出帆、
     ホーン岬を回航して大西洋へと航海
▼1775年:〜:
01/01、フェゴ島沖のスタテン島(Staten Island)に上陸、
     食料用に大量のアシカやアザラシを狩猟して船積みする
01/02、本日は茹でペンギンとアザラシのデイナーとなる
01/03、スタテン島を出帆、東南へと航海して南極海へ向かう
01/14、南極海の氷の島を発見、迂回して航海
01/17、入江を探して接岸を試し、上陸するも一木一草見当たらず、
レゾリューション号はサウス・ジョージア島を一周航海して大きな島に上陸し、ポゼッション湾(Possession Bay)で、同行のドイツの博物学者ヨハン・ゲオルク・アダム・フォルスター(Johann Georg Adam Forster, 1754-1794)と3ヵ所に分かれて上陸、調査、地図に記録し、国王ジョージ3世にちなんで「ジョージア島」(Isle of Georgia)と命名し、国旗を掲揚しマスケット銃隊(Rifled musket)が3発の礼砲を放ってイギリス領と宣言しました。
01/27、南緯60度を突破、いよいよ南極海に突入航海、
     霧が深くなり巨大な氷山(ice bergs)が現れる
02/06、南端の島のテューレ島(Thule、Southern Thule)に到達、
レゾリューション号はサウス・サンドウィッチ諸島(8島)を発見して、クック船長の太平洋探検航海の有力な支持者で海軍大臣サンドウィッチ伯爵(第4代サンドウィッチ伯ジョン・モンタギュー、John Montagu, 4th Earl of Sandwich、1718-1792)にちなんでサンドウィッチ島(Sandwich Land)と命名して、イギリス領と宣言しました。
02/15、巨大な氷山に阻まれ、北東へ転舵
02/21、これ以上の高緯度に行くことに見切りをつけ、東方へ転舵する
02/24、北東方へと航海を続け、喜望峰に向かう、
     北東(North by East)へ進路を取れ!
03/13、喜望峰に到着、英国船やフランス船、オランダ船など多くを見かけ、交流する
03/15、アドヴェンチャー号が2ヵ月前に来ていたことを聞く
03/21、ケープタウンのテーブル湾に投錨、船の修理を実施
     画家ホッジスはテーブル湾の風景画を描く
04/26、船の修理と補給物資の積み込みが終わり、デンマークの東洋貿易船
     ダットン号のライス船長(Capt Rice)と合流して出帆を約す
04/29、ライス船長のダットン号と共にケープタウンのテーブル湾を出帆
05/15、セントヘレナ島(Saint Helena)到着、上陸、総督を表敬訪問
05/21、セントヘレナ島をダットン号と出帆
05/28、アセンション島到着、クロス湾(Cross Bay)に投錨、上陸
05/31、アセンション島を出帆、ブラジル沖の
     フェルナンド・デ・ノロンハ島(Fernando de Norono)へ向かう
06/09、フェルナンド・デ・ノロンハ島に到着、礼砲を放って通過
06/11、赤道を横断
07/01、アゾレス諸島へと航海
07/13、アゾレス諸島のピコ島(Pico)に到着
07/19、ピコ島出帆、テルセイラ島とグランシオーサ島の間のセント・ジョージ海峡を通過
07/22、順風に乗ってイングランド・コンウォールのリザード岬へ直行の帰途に就く
07/28、行き交う多くの船舶を望見、「母港は近い!」
07/29、プリマス沖のイングランド最初の灯台”エディストーン”(Eddystone Lighthouse)と
     ハッピー海岸(happy Shores)スタート・ポイント(Start Point)を通過
07/30、レゾリューション号はスピットヘッド泊地(ポーツマス)に投錨、
     帰国しました。
レゾリューション号は3年と18日の航海中に死亡したのは4人で、うち病気で亡くなったのは一人だけで、1775/7/30にイギリス・スピットヘッドに帰国しました。なお、アドヴェンチャー号はホーン岬を経由、世界最初の東回り世界一周航海後、1774/10/14にイギリスに帰国していました。

1778年にウォーレン・ヘイスティングス(Warren Hastings 1732-1818)の支援で、初めてのイギリス人画家としてインドへ航海し、6年間滞在しました。1790年にはロシアのサンクト・ペテルスブルグへ旅行しました。1793年にインドの絵画を出版しました。1794年にロンドンで「平和の残したもの、そして戦争の残したもの」(The Effects of Peace & The Effects of War)という展覧会(exhibition)を開催しました。ところが折しもイギリスは、フランス革命の余波で、1795/1月に第一次対仏大同盟戦争(War of the First Coalition 1792-1797)に突入して戦意が高揚している時期でしたので、展覧会を見に来た英国王ジョージ3世(King George III 1738-1820)の次男ヨーク・オールバニー公爵フレデリック王子(Prince Frederick, Duke of York and Albany; 1763-1827)が政治的な絵画に激怒し、展覧会は閉鎖され、ホッジスの画家としての生命は終わりを告げました。

その後、引退してデヴォン(Devon)で銀行を始めましたが、金融危機(banking crisis)で、1797/3月に破産し、公式には「腹部の通風」(gout in the stomach)にて52才で亡くなったとされていますが、本当は鎮痛剤アヘンチンキ(laudanum)のとりすぎで自殺して亡くなったと噂されました。

参考HP:〜
 ・イギリスの地図
 ・ロンドンの場所地図
 ・デヴォンの場所地図
 ・タンナ島の場所地図(ヴァヌアツの地図)
 ・インドの場所地図(日本語)
 ・サンクト・ペテルスブルグの絵地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   10/7/31
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