Netherland

国連 1989 発行
切手で綴る 蘭英戦争(Naval Battle Voyages) オランダ海軍の提督 No.1
トロンプ提督
1652
イギリス艦隊を撃破

大航海物語
 オランダ編

NEDERLAND
トロンプ(父)

オランダ 1943-44 発行

JERSEY
英仏海峡の地図

ジャージー 1970-75 発行



NEDERLAND
オランダの地図

オランダ 1972 発行

ANTIGUA BARBUDA
海戦の図

アンチグアバーブダ 1984 発行

オランダのトロンプ提督は第1次蘭英戦争でイギリスのブレーク提督と数度にわたって戦いました。ケンティッシュノックの海戦 (1652/9/28)でオランダが敗北を喫して制海権をイギリスにとられるも、トロンプ提督がダンジネスの海戦(1652/11/30)で勝利して制海権を奪取しました。”スヘフェニンゲン沖の海戦”(1653/7/31,55才)で戦死しました。

・蘭提督ルテナント・アドミラル・ジェネラル・マールテン・ハーペルツゾーン・トロンプ中将(父)
  (Lieutenant Admiral General, Maarten Harpertszoon Tromp, 1598/4/23-1653/7/31)
  蘭:マールテン・ハルパーツゾーン・トランプ、ベベルヘバー・バンズ・ランズ・ヴルート
  (Maarten Harpertszoon Tromp, bevelhebber van 's Lands Vloot)
マールテン・トロンプ提督は、フリゲート艦オリファントストロム号(Olifantstromp "Elephant Trunk"象の幹")艦長の父ハーパート・マルテンス(Harpert Maertensz, 1571-1610戦死39才)の長男で、南ネーデルラント南ホラント州フォールン島北側の港町ブリエル(Brielle, Voorne Island)にて誕生。母ジャネトゲン・クワック(Jannetgen Barendsdr Quack, c1575-1655)は洗濯婦での収入で家計を支えていました。トロンプ提督は幼少の頃から船に乗っていたとされている生粋の船乗りでした。
1607年に9才で父と一緒に海に出て、ジブラルタルの海戦(Battle of Gibraltar, 1607/4/25蘭勝利)ではオランダの主力艦隊を護衛する支援艦隊に参加して従軍。1610年に海軍再編成で父がリストラ除隊した後、トロンプ提督は商船でギニアに向かう途中で、イギリス海賊ピーター・イーストン(pirate Peter Easton, c1570-1620)の船隊7隻に襲われ、父は海賊船の砲弾で死亡。トロンプ提督は捕虜になりました。海賊にサレ(Sale:モロッコ北西部ブー レグレグ川(Bou Regreg river, 240km)右岸で首都ラバトの向かいにあった海賊の港)の奴隷市場で売られて2年後に海賊イーストンの哀れみの情けで解放されました。帰国後にロッテルダムの造船所で働いて母親と3人の姉妹を支えました。19才で再び海に出て一時的に海軍で働くも、1621年に商船隊に加わった後、今度はチュニス沖でバーバリー海賊に捕ら 海賊船と旗印

エクアドル 2006 発行
えられ、24才まで奴隷として飼われていました。そしてチュニスのムラド王朝創始者ムラド・ベイ(Murad I Bey, 在位1613-1631)と、イギリス系オスマン帝国(1299-1922)のバーバリー海賊ジョン・ウォード(Barbary corsair John Ward. c1553-1622)が、トロンプ提督の砲術と航海術の技量を見込んで、艦隊の指揮官となるように申し出るも、トロンプ提督が断ったので、その勇気に免じて自由人として去ることを許可して解放されました。

1622/7月24才でオランダ海軍に士官(Lieutenant)待遇で加わり、ロッテルダムマゼ海軍本部に勤務。1624/5/7に商人の娘と結婚。同年に速航メッセンジャー船アドバイス・ヨットのセント・アントニュース号(Advice yacht St. Antonius)の船長になりました。1629/3/26にベルギーのフラマン地方西フランダース州オステンド(Ostend, West Flanders province, Flemish Region, Belgium)での私掠船隊ダンケルカーとの戦い(Campaign vs Dunkirkers, 1629/6/18)で戦死したピート・ハイン中将(Lieutenant Admiral Piet Pieterszoon Hein, 1577-1629/6/18)の旗艦フリーゲンデ・グルーネ・ドラエック号(Vliegende Groene Draeck)の艦長に就任。そして1629年に蘭英連合軍とスペインが戦ったスヘルトーヘンボスの包囲(Siege of 's-Hertogenbose (別名ボア・ル・デュクの包囲:Siege of Bois-Le-Duc)1629/4/30-1629/9/14)で連合軍を勝利へ導いた陸軍大将オラニエ公オランダ共和国総督フレデリック・ヘンリー提督(Admiral General Frederick Henry, Sovereign prince of Orange & Stadtholder of Dutch Republic,1584-在位1625-1647/3/14)に認められて艦隊司令官となって、フリーゲンデ・グルーネ・ドラエック号に乗艦してダンケルカーとの戦いで大成功を収めました。1633年に最初の妻が亡くなりました。1634年に海軍を持して教会の助祭(Deacon)になりました。

・ネーデルラント連邦共和国(オランダ)連合艦隊の最高司令官
 (Supreme commander of the confederate of the Dutch fleet)
 (ネーデルラント連邦共和国、1581-1795)
 (英:Republic of the Seven United Netherlands、蘭:Republiek der Zeven Verenigde Nederlanden
1637年のオランダ海軍改革でフィリップス・ファン・ドルプ中将(Lieutenant Admiral Philips van Dorp, 1587-1652)、ジャスパー・リーフヘバー中将(Vice Admiral Jasper Liefhebber, 1591-1641)などが解任された後、オランダ海軍のピエト・へイン提督(Lieutenant Admiral Piet Hein, 1577-1629/6/18)に認められて、1637年39才でホラント州西フリジア中将(Lieutenant Admiral of Holland & West Frisia)に昇進しホラント州海軍の司令官になりました。やがて公式にはオラニエ公フレデリック・ヘンリー提督が最高司令官なるも、トランプ提督が連合艦隊の最高司令官になりました。連合艦隊旗艦ピート・ハイン号(Piet Hein)艦長ウィット・デ・ワイズ提督に座乗し、主に私掠船ダンケルカークの港(privateer port of Dunkirk)を封鎖することに専念しました。

八十年戦争(1568-1648)
八十年戦争ではダンケルクの海戦(1639/2/18)でスペイン艦隊を破り、ダウンズの海戦(1639/10/21)で上陸軍を含むスペイン・ポルトガルの大艦隊を撃破するなど大活躍しました。

蘭英戦争
第1次蘭英戦争(1652/7/10-1654/4/5)では、開戦前の1652/5/19(54才)にイギリス海峡でオランダ艦隊と遭遇したイギリス艦隊の指揮官ブレーク提督がオランダ艦隊に敬礼をするよう要求し、オランダ艦隊のトロンプ提督がこれを拒否するとともに発砲したことでドーバーの海戦(1652/5/19,引分)が戦われ、やがて第1次蘭英戦争が勃発しました。こうして開始された海戦は、付近にいた両国の主力部隊(数十隻)が参加して大混戦となりましたが、勝敗はつかず引き分けに終わり、トロンプ提督は司令官職を解任され、後任としてウィット・デ・ワイズ提督が任命されました。その後のケンティッシュノックの海戦(1652/9/28)でオランダが敗北を喫して制海権をイギリスにとられてデ・ワイズ提督が罷免されたことでトロンプ提督が復職しました。トロンプ提督はダンジネスの海戦(1652/11/30)に勝利して制海権を奪取しました。

1653/2月のポートランド沖の海戦(1653/2/18)では、イギリスのブレーク提督に代わって指揮を執ったジョージ・マンク提督のイギリス艦隊80隻に対し、トロンプ提督のオランダ艦隊75隻が戦いました。オランダ艦隊は3隊に分けられ、開戦時にはほぼ東方向に進んでいました。オランダ艦隊はトロンプ提督が中央隊を自ら率い、左翼隊はデ・ロイテル提督、右翼隊はエヴァツェン提督が指揮しており、中央の後方に250隻の商船隊が置かれていました。一方のイギリス艦隊も3隊に分かれて、オランダ艦隊の行く手を阻むため南西方向に進みました。海戦の結果は、オランダ艦隊は商船70〜80隻を失い、残りの商船はほとんどを護送することに成功するも、軍艦は約30隻が沈められてしまいました。これに対してイギリス艦隊の損害は非常に少なく、ほんの数隻の軍艦を失っただけの大勝利となり、オランダは大敗を喫して制海権を失いました。

6月のガッバードの海戦(1653/6/2、別名ノースフォアランドの海戦:Battle of North Foreland)でもオランダ艦隊がマンク提督艦隊に再び敗れて、オランダ沿岸の封鎖を許すこととなりました。更に8月には再建途中のオランダ艦隊がマンク艦隊に発見されてスヘフェニンゲンの海戦'1653/7/31別名:テル・ヘイデの海戦,55才)が勃発。激戦の末にオランダ艦隊は大きな被害を出してトロンプ提督が戦死しました。イギリス艦隊の損害も大きくてオランダ沿岸の封鎖を続けられなくなりました。トロンプ提督没後の1654年にウェストミンスター条約(1654/4/5)が成立して第一次蘭英戦争は終結しました。

<家族>結婚3回、子供8人成長
・ディナ・コーネリスドル・デ・ヘス(結婚1624/5/7、商人の娘)
 (Dina Cornelisdr de Haes, 1599-1633/11/20、没34才)3人の母
 ・ハーパート・メルテンスゾーン・トランプ、ヒーア・ファン・フォールバーグ
 (Harpert Maertenszoon Tromp, Heer van Voorburg, 1527-1691)
 ・ヨハネス・トロンプ
 (Johannes M. Tromp, 1632-1673)
 ・A中将ソルベスボリ伯コルネリス・トロンプ提督(子)(1629/9/3-1691/5/29)
  (Lieutenant Admiral Cornelis Maartenszoon Tromp, Count of Solvesborg)
  (Cornelis Maertensz Tromp "opperbevelhebber van de Nederlandse en Deense vloot", 1629-1691)
・アリダ・アルケンバウト(結婚1634/9/12、ブリル(Brill)の裕福な徴税人の娘)
 (Alida Arckenbout, 1602-1639/4月、没36才)2人の母
 ・ヤコブ・トランプ(Jacob Tromp, 1635-?)
 ・アリダ・トランプ(Alida Tromp, 1637-1701)
・コーネリア・テディング・ヴァン・バークアウト(結婚1640/2/1)
 (Cornelia Teding van Berkhout,1614-1680/10/12、没66才)3人成長の母
 ・マルガレータ・マルティナ・マーテンズ・トランプ
 (Margaretha Martina Maartensdr Tromp, 1641-1680)
 ・エイドリアン・マルテンス・・トランプ
 (Adriaen Maartensz Tromp, 1642-1679)
 ・ヨハンナ・マリア・マルテンス・トランプ
 (Johanna Maria Maartensdr Tromp, 1644-1717)
 ・(他3人幼逝)。

<トロンプ提督の主な従軍戦歴:1637〜1676>
・八十年戦争(Eighty Years' War, c1566/1568-1648)
 ・オランダ独立戦争(1579-1609)
  ・ジブラルタルの海戦(Battle of Gibraltar, 1607/4/25)蘭勝利
  ・ダンケルクの海戦(Action of 18 February 1639, 1639/2/18, Dunkirk)蘭勝利
  ・カレー沖の海戦(Action of 18 September 1639, 1639/9/18, Calais)引分
  ・ダウンズの戦い(Battle of the Downs, 1639/10/21)蘭勝利
第一次蘭英戦争(First Anglo-Dutch War, 1652/7/10-1654/4/5)
 ・ドーバーの海戦(1652/5/19)引分
 ・ダンジネスの海戦(1652/11/30)蘭勝利
 ・ポートランド沖の海戦(1653/2/18)英勝利
 ・ガッバードの海戦(1653/6/2)英勝利
 ・スヘフェニンゲンの海戦(1653/7/31)引分、没
 ・など。

参考HP:〜
テクセル島の場所地図
オランダの地図(1672)
オランダ最大版図の地図(19世紀)
オランダの地図(現在、水面下を示す図)
オランダの区分地図(現在、州・準州、サバ島シントユースタチュウス島ボネール島など有)

こちらで
蘭英戦争(1652-1674)
第1次蘭英戦争(1652-1654)
第2次蘭英戦争(1665-1667)
第3次蘭英戦争(1672-1674)
第4次蘭英戦争(1780-1784)
マゼラン (海峡)
スパイス (香辛料)
コーヒー (嗜好飲料)
ラッコ(絶滅危惧種)
クリッパートン島(絶海の孤島)
カリブ海の地図(島国シリーズ)
フランスの王と王族(ブルボン朝)
切手コレクションの
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る東海道五十三次
全米50州アメリカ
・世界で1番美しい 蝶々
・ギリシャの民族衣装
・スペインの画家ゴヤ
世界遺産
フランス
法隆寺日本
ヌビア遺跡エジプト
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿ギリシャ
モヘンジョダロパキスタン
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   平成20年 2008/3/23追記、令和5年 2023/5/28
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