HOME I モルガンお雪 II 1/17ながた III 黄斑上膜 VI 日本丸セイル VII 進水式 VIII 豊岡ボランティア
(大航海) IV 海牛ランド V インカの謎 IX サンファン号 ]ゴロニン牢屋跡 XI 高田屋 XII 戦闘機 飛燕 XIII 異人館

和製メッサーシュミット 飛燕 大日本帝国陸軍戦闘機アルバム

川崎重工創立120年&神戸港開港150年記念
撮影:平成28年 2016/10/15(土)
於:神戸港第4突堤ポートターミナル特設展示場
”川崎キ61”飛燕17号機

・日本でタダ1機だけ残っている実物の「飛燕」ひえん(^^♪
 (大日本帝国陸軍の三式戦闘機”川崎キ61” 飛燕 17号機)
この飛燕は敗戦直後に横田基地で米軍に捕獲され 最後に鹿児島の旧特攻隊基地「知覧」にあったんを、川崎重工が創立120年記念で修復して、神戸港開港(1868)150年記念で神戸市中央区の神戸港第4突堤ポートターミナル・大ホール特設展示場に展示(2016/10/15〜11/3)、4万人以上が来場♪

・川崎キ61”飛燕”の運用と実戦:〜
三式戦闘機の実戦配備は、本来海軍の担当戦域であったニューギニア・ソロモン方面の戦況が悪化したので、1942/11月には陸軍航空隊の内、戦闘機2個戦隊(39+予備機若干)、重爆撃機1個戦隊、軽爆撃機2個戦隊、司偵独立1個中隊の投入が決定。12月中旬、ラバウル一式戦闘機を装備した第12飛行団の2個戦闘機戦隊(第1戦隊、第11戦隊)が進出するも、米のB-17爆撃機や戦闘機との戦闘で戦力が消耗したため、代わりに新鋭の飛燕を装備した第14飛行団、第68戦隊と第78戦隊の投入が決定。

1943年
3月末、68戦隊に予備機含め45機ほどのキ61が集められ、空母大鷹に積載
04/10、トラック諸島に到着
04/24、編成できず出発を断念
04/27、27機が離陸
     進出作戦の結果は、到着した機体が27機中15機、失った搭乗員3人、喪失機10機
     この後、トラック島から6機が追加空輸
06月、キ61が「三式戦闘機」の制式呼称を与えられる
6/16、78戦隊45機が島伝い、全行程約9,000kmでラバウルへ進出
    (宮崎県、沖縄、台湾、マニラ、ダバオ、メナド、バボ、ホーランジア、ウェワク、ラバウル)
6/29、7機がラバウル着
7/5、合計33機がラバウルに進出完了、12機は途中の飛行場に残置
7/8、第14飛行団が実戦を開始

<ラバウル進出>
第14飛行団は1942/3月に編成され、満州で97式戦闘機での訓練中でしが、南方進出にあたり、キ61飛燕への機種更新を命じられ、先に68戦隊から機種更新を始めることとなり、1943年の年明けから明野飛行学校 (三重県伊勢市小俣町明野にある陸上自衛隊駐屯地で陸上自衛隊航空学校本校が有) にて本格的な機種更新を開始。68戦隊に進出予定の3月末までに予備機含め45機ほどの飛燕が集められ、空母大鷹(20,000屯)に積載のうえ4/10にはトラック諸島に到着。ここから空路でニューブリテン島ラバウルへ向かうこととなるも、トラックにおける訓練中にもいくつかの事故が発生して殉職者がでる有様で、飛燕への不信感が募りました。さらに問題となったのが、飛燕の航続力で、増槽(落下タンク)が不足していたため、戦隊長、中隊長、中隊付先任将校の機には2本付けたものの、大半の機には1本だけ装着しました。増槽1本装備の状態で設計上は約2,000q飛行できる(増槽2本で最大3,000km)ことにはなっているも、実戦部隊の機、しかも編隊を組むための空中待機の時間などを考慮すると正味1,500〜1,600q程度で、トラックからラバウル間の約1,300kmの距離と比較して余裕があるとは言い難い燃料状況でした。そうした中、4/24にいよいよラバウルに進出することとなるも、集団で離陸する訓練をしていなかったため、全機が離陸して集合を終えるまで1時間もかかった上、しばらく飛行したところで下山戦隊長機に不具合が発生したことから、進出を断念。加えて引き返したあたりで、大木正一曹長機がエンジン不調で不時着水し、トラックから300km近く離れた地点だったため、曹長はそのまま行方不明となり、初の戦没者を出す事態になりました。4/27に27機が再度ラバウルへ向けて発進。3日前の反省から、戦隊本部と第1中隊の12機が先行し、約1時間後に第2中隊と第3中隊の15機が後続しました。
・先発隊の編成(12機)
 ・戦隊本部(4機)
  ・下山登中佐(戦隊長)〜ヌグリア諸島不時着
  ・浅野眞照大尉〜トラックに帰着
  ・西川貞雄曹長〜トラックに帰着
  ・稲見靖軍曹〜タンガ諸島付近不時着
 ・第1中隊(8機)
  ・中川鎮之助中尉(中隊長)〜ラバウル着
  ・小川登中尉〜自爆
  ・白山銀蔵曹長〜ニューブリテン島内不時着
  ・池田秀夫曹長〜ラバウル湾不時着
  ・黒岩朝彦曹長〜ニューブリテン島内不時着
  ・山崎民作曹長〜ヌグリア諸島不時着
  ・吉田晃軍曹〜自爆
  ・寺脇弘伍長〜ニューブリテン島内不時着
・先発隊12機の経過
まず、先発隊を先導するはずだった百式司令部偵察機がエンジン故障のため発進できなかったことから、陸軍飛行隊単独で不慣れな洋上計器飛行を行うことを余儀なくされた。飛び始めてまもなく、浅野大尉、中川中尉らは、3日前と景色が異なっていることから異変に気づき、コンパスを見るとほぼ真南である175度の進路を取るところを、145度の進路を取っていた。しかし搭載されていた無線機は不調で、相互の連絡も取れない状況であったことから、戦隊長に誤りを報せることができなかった。そのまま20分ほど飛行を続けたところで、西川曹長機がエンジン故障のためトラックに引き返し、浅野大尉機がこれに同行した(この両名は無事にトラックに帰着)。飛行を続けるうちに、下山戦隊長自身も針路に疑問を感じ始めたが、無線が通じないため他機に確認のしようがなく、目標のない洋上飛行で勘を信じるのは危険との判断から、しばらくコンパスにしたがって飛ぶこととした。トラックを離陸して2時間ほどたったところで、正しいコースから東に300kmもずれたグリーニッチ島が見えてきたことから、下山戦隊長機のコンパスが狂っていることは明白となった。ちょうどその頃、小川中尉機と吉田軍曹機が立て続けにエンジン不調となり、両名とも自爆した。出発後3時間半を経たあたりで、下山戦隊長も進路の間違いを確信し、修正を試みたものの、正しく修正できなかったため、たまりかねた中川中尉機が先導してようやく正しい方角に修正したが、既に時機を逸していた。ラバウル北東約250kmにあるヌグリア諸島にさしかかったあたりで、落下タンクが1本の機は燃料が乏しくなっており、それを察した下山戦隊長は、部下が不時着を躊躇しないように自ら同諸島に不時着し、山崎曹長機がこれに続いた。稲見軍曹機はその先のタンガ諸島付近に不時着水し、軍曹は原住民に救助された。残った5機はなおもラバウルを目指したが、池田曹長機はラバウル湾、白山曹長、黒岩曹長、寺脇伍長の機はニューブリテン島内に不時着し、結局先発隊12機のうち、無事にラバウルに辿り着いたのは中川中尉機だけであった。なお、後発隊はこれより先にラバウルに到着していたが、おそらく故障のため途中で1機を失った。進出作戦の結果は、到着した機体が27機中15機、失った搭乗員3人、喪失機材は10機という惨憺たる結果に終わった。この後、トラック島から6機が追加空輸された。なお第14飛行団司令部はまだ到着していないため、暫定的に内地へ引き返す第12飛行団の指揮下となった。初陣は1943/5/15に18機で九七式重爆撃機を護衛。戦隊の使用可能機数は5月末時点で18機、その後もトラックからの空輸により補充が行われた。
・後発隊45機の経過
68戦隊に続き、前線に投入された78戦隊は、1943/4/10から明野飛行学校で本格的な機種変更を開始するも、やはり初期の故障に悩まされ錬成は遅れた。ラバウルへの進出については6/16から実施された。第68戦隊の航空事故の失敗を繰り返さないため、長距離洋上飛行ではなく、宮崎県から沖縄、台湾、マニラ、ダバオ、メナド、バボ、ホーランジア、ウェワク、ラバウルの行程で、島伝いの進出が計画された。進出した機数は45機、全行程は約9,000kmである。整備班を載せた輸送機が同行したが故障機が続出した。6/29にラバウルに到着したのはわずか7機に過ぎなかった。その後、落伍機の復帰で7/5までには合計33機がラバウルに進出したが、12機は途中の飛行場に残置。こうして第14飛行団はラバウルへの進出を完了。1943/6月にキ61は「三式戦闘機」の制式呼称を与えられ、7/8には実戦を開始。

<ニューギニア進出>
現地の作戦領域の分担としては、海軍がソロモン諸島方面を、陸軍がニューギニア方面を担当していました。なおこの方面には三式戦闘機の飛燕2個戦隊の他に、一式戦闘機の隼8個戦隊が配備されていました。当初は爆撃機の護衛などを行うも、稼働率は低く、搭乗員は故障知らずの海軍の零戦をうらやんだといわれています。第14飛行団は内地へ引き返す第12飛行団と入れ替わり、7/15には東部ニューギニアのウエワクへ転進。ここで本格的な作戦が開始され、7/17時点で、68戦隊が13機、78戦隊が22機、合計35機の可動機が駐機。8/10には新編された第4航空軍の第7飛行師団隷下となりました。なおイギリス文献の「週刊Aircarft」によれば、飛燕は米P-40相手には優勢に戦い、連合軍は一時的に制空権を失い、ヨーロッパに配備予定のP-38をこの戦線に回すよう、米陸軍航空軍司令官に直訴が行われたと伝えています。第14飛行団は主にP-38を敵として対戦するも、1943/8/17には連合軍のB-25爆撃機32機、P-38戦闘機85機の戦爆連合による奇襲的な空襲を受け、第4航空軍の保有する130機の戦力は40機へ低下しました。14飛行団も68戦隊が可動機6機、68戦隊は可動機0機と、壊滅的な損害を受けました。その後もマニラで新機材を受領し、空輸を行って戦力の補充に努めました。連合軍はP-38、P-40および新鋭P-47戦闘機、B-24爆撃機、B-25爆撃機であり、戦隊は激しい戦闘に従事しました。新鋭のP-47はP-38ほど一撃離脱に徹しなかったため、むしろ戦いやすかったとされるも、性能自体は高く一撃離脱に徹されると脅威であったとも伝えられています。

<フィリピン戦線>
ニューギニアを制圧した米軍の次の目標はフィリピンでした。一説にはこの頃になると、飛燕は対戦闘機戦闘に不向きと見なされる様になり、連合軍爆撃機の迎撃任務に回され、制空戦闘については新型の四式戦闘機の方に期待がかけられはじめました。1944/2月には第22飛行団として愛知県小牧で第17戦隊、明野で第19戦隊が編成。第17戦隊長は開発時より飛燕に携わってきた荒蒔義次少佐(陸士42)。飛行団は5月内にマニラに進出し、南方軍直轄の第2飛行師団に編入されるも、7/5に第4航空軍隷下に移動。機材の受領と錬成が順調に進まないものの、6月下旬までには35機を揃えてマニラへの進出を完了。8月末の時点で可動機は第17戦隊が14機、第19戦隊が18機でした。なお、第4航空軍第7錬成飛行隊の10機程度も戦力として使用が可能で、飛燕の他には第4航空軍全体で318機、海軍は第一航空艦隊241機の航空機を用意していました。1944/9/21に第17戦隊(機数不明)と第19戦隊(20機)、合計約40機がアメリカ第38任務部隊の新鋭艦上戦闘機であるF6Fと交戦。圧倒的多数の敵機との空戦により約25機から少なくとも22機が失われ、第17戦隊はパイロット12人を失う大損害でした。第19戦隊も6人、第7錬成飛行隊も2人を喪失。米軍側の損害は対空砲火によるもの以外皆無もしくは僅少でした。翌9/22も7機で迎撃を行うも、さらに2人の戦死者を出し機体3機を喪失、戦果は無。それでもフィリピン方面では10/10までに、第17戦隊の可動機は22機に、第19戦隊は25機にまで回復。第22飛行団は戦闘を続け、10/18に捷一号作戦が発令され、20日には連合軍はレイテ島に上陸。敵艦船への攻撃に参加した結果、10/22までに飛行団の可動機は完全に尽きました。24日には苦心して2機から3機の可動機を揃えるも、この段階で既に戦闘の大勢は決していました。11/1には、第19戦隊の生き残りである10人程度のパイロットに本土帰還が命じられました。しかし荒蒔戦隊長らを含む第17戦隊は戦闘を続行。11月頃には第2飛行師団全体で40機程度の戦闘機しか保有しないという過酷な戦況の中で戦闘を続け、内地帰還命令が出たのは12/8でした。荒蒔戦隊長がフィリピンを離れたのは翌1945/1/9でした。また帝国本土侵攻への大きな一歩であるフィリピン作戦には、本土防空任務に当たっていたいくつかの飛行戦隊も投入されました。そのうち、第18飛行戦隊と第55飛行戦隊も飛燕装備部隊でした。第18戦隊の1型丙は、現地での弾薬補給が困難な20mmマウザー砲の代わりに12.7mm機関砲を装備し、11/11に35機が出発。この戦隊は那覇・台湾経由で進出し、18日までに31機がアンヘレス西飛行場に到着。当初は四式重爆撃機で編成された特攻隊の護衛任務に従事。ところが11/25にはF6F戦闘機との空戦に敗れ、可動機は5機にまで減少し、1945/1月には本土に帰還を余儀なくされました。第55戦隊は11/10に本土を出発。18日までに約30機または38機がアンヘレス西飛行場に到着。しかし11/25には米P-38の奇襲を受けて7機の損失を出すなどで苦戦。明けて1945/1/9にアメリカ軍はルソン島に上陸を開始。1/15には戦隊に帰還命令が出され、5人の搭乗員は内地へ帰還、いくらかの人員は台湾への後退に成功。地上勤務者の大半は地上部隊に編入され、アメリカ軍との交戦の末に戦死するものが大半を占めました。また19戦隊は本土での戦力回復後台湾へ移動、1945/1/5頃に1個中隊がフィリピンに再進出。なお一部は台湾に残置。彼らは艦船攻撃や特攻機の援護などを行い、12日までにその戦いの幕を下ろしました。

<北九州防空戦>
1944/6/15に中国の成都飛行場を離陸した62機のB-29は、九州福岡県の八幡製鉄所を爆撃。この時、第59戦隊は練度不足で出撃不能でした。その後、7/7の夜間空襲に5機が迎撃するも会敵できず。8/20にアメリカ第58爆撃航空団の75機に対する迎撃戦で飛燕はB-29と初めて交戦しました。59戦隊の出撃可動機は21機でした。迎撃戦は16時半頃から小倉・八幡周辺で行われ、二式複戦機(屠龍)を装備する第4戦隊と海軍機も迎撃戦に参加。米軍は事故機を含め14機を喪失。この戦闘で第59戦隊は撃墜確実1、撃墜不確実3、撃破5を報告。帝国軍全体では撃墜確実24、撃墜不確実13、撃破47と報告。第59戦隊の損害は機材4機、パイロット喪失1人。この空襲後、第56戦隊も戦力の一部の17機を済州島に移し空襲に備えるも、アメリカ軍は目標を鞍山の昭和製鋼所に変更。この攻撃は南京の第5錬成飛行団が迎撃。しばらく北九州での迎撃戦の機会は無かったが、1944/10/25に長崎県大村の海軍航空廠が爆撃目標となり、その帰路を迎撃した56戦隊は撃墜1、撃破6機以上の戦果を報告。成都からのB-29に対する北九州での迎撃戦は、1945/1/6まで続けられました。

<本土防空戦>
従来、日本本土には97式戦闘機など旧式機が配備されているも、性能不足の迎撃機では米新型爆撃機の迎撃が不可能でした。東京調布飛行場に新鋭の飛燕が配備されたのは第14飛行団78戦隊がラバウルへ進出しようとする1943/6月以降でした。これが第3の飛燕部隊で、後に帝都の第10飛行師団配下となる調布飛行場の飛行第244戦隊でした。やはり配備初期であったため、多くの故障に悩まされるも、11月には機種改変を終え、一時期には40機全てにマウザー20mm機関砲を装備。1944/2月には調布で第18戦隊も飛燕での編成を完了。1944/7/7にサイパンが陥落、その後帝国本土は本格的な空襲にさらされました。この時期のB-29による空襲は高高度で行われていたが、ターボチャージャー(排気タービン)を装備し高度10,000mを飛ぶB-29に攻撃を実施するのは非常に困難でした。排気タービンを装備しない日本機のエンジンは高空で出力の低下が著しく、陸軍が持つ戦闘機で唯一高度10,000mで戦闘ができたとされる飛燕でもその空域では浮いているだけで限界といった状況であり、迎撃方法としてはあらかじめ侵攻方向上に待ち構えて一撃を加えるのが精一杯でした。B-29に対し、一撃をかければ数千mの高度を失い、高度を回復して追いつくことはできませんでした。1944/11/7に陸軍は航空機による体当たり特攻部隊を編成。かなりの戦果をあげたといわれています。一説では、12/3に86機出撃の米B-29を6機撃墜、6機に被弾させ、帝国機は特攻で6機を喪失しました飛燕部隊の体当たりは第244戦隊で20回、全体で30回でした。1945/1/27の体当たり迎撃が行われ、62機のB-29に体当たりが行われた後、B-29は命中精度の低い高々度爆撃を停止し、比較的低高度での夜間爆撃を多用したため、体当たり攻撃の機会は激減しました。

フィリピンでの敗北後、飛燕の主戦場は本土防空戦のほか、沖縄戦に移りました。だが1944年から型式変更を予定した三式戦闘機二型は、新型1,500馬力級液冷エンジンのハ140の不調のため生産が全く進まず、わずか99機で生産を停止、空冷エンジンであるハ112-IIに換装した五式戦闘機へと主力が変更されました。。1945/3月からの沖縄戦では、本土にあったほぼ全ての飛燕、ないし五式戦闘機部隊が投入されました。九州には第六航空軍の4個飛行戦隊、台湾には第8飛行師団の3個戦隊と、1個独立飛行中隊が存在。また航続距離の関係上、一部は奄美群島喜界島に進出し特攻機の護衛を実施。これらは当初、天一号作戦の特攻機の護衛として用いられるとされるも、結局は4/1には第17戦隊の7機が特攻に投入されたのを皮切りに、沖縄戦全体では計97機が特攻を実施。これは陸軍の全特攻機の約一割の数字でした。

こちらで
飛燕 (切手で綴る太平洋戦争)
かかみがはら航空宇宙科学博物館(”川崎キ61”飛燕17号機を永久展示予定)
(岐阜県各務原市下切町5丁目1番地に有、リニューアルで一時閉館中、平成30年春の完成予定)
をお楽しみください。

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。      2016/11/23
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Kosyo
無断転載禁止