France

国連 1980 発行
切手で綴る サフレン提督の従軍戦歴 (2)
七年戦争
1756-1763
海 戦
大航海物語
フランス編

ORDINE DI MALTA
サフレン提督

1788 サフレン提督没後200年記念 1988
マルタ騎士団 1989 発行
St. Vincent
フランス海軍の戦列艦
Le vaisseau de 104 canons


1789 フランス革命200年記念 1989
セント・ヴィンセント 1989/7/7 発行

CANADA
七年戦争の終結、135年後のイギリス領(赤)の世界地図

カナダ 1898 発行

Nevis
帆船の海戦の図

Battle of Frigate Bay, 1782
ネヴィス 1989/4/17 発行

海軍中将ピエール・アンドレ・ド・サフレン・ド・サン・トロペ伯爵
 Vice Admiral Comte Pierre Andre de Suffren de Saint Tropez, bailli de Suffren, 1729〜1788
サフレン提督の従軍戦歴>(2)

七年戦争(1756-1763) 勝者 メモ 戦場
(3) 1756/5/20 ミノルカ島の海戦 オルフェ号 地中海
(4) 1758/2/28 カルタヘナの海戦 オルフェ号 地中海
(5) 1759/8/18 ラゴスの海戦 オセアン号、捕虜 大西洋
1756/4月-6/29 ミノルカ包囲戦 ミノルカの占領 ミノルカ島
1759/11/20 キブロン湾の海戦 フランスの完敗 ビスケー湾
1762/6/6-8/13 ハバナの戦い ハバナの占領 キューバ
1756-1763 休戦条約 Treaty of Seven Years' War など。
ムガール帝国

※参考
七年戦争
 (Seven Years' War, 1756-1763)
 別名:第3次シュレージェン(シレジア)戦争(七年戦争の局地戦)
 (Third Silesian War, 1756-1763)
七年戦争は、ハプスブルク家(House of Habsburg, 11世紀-1780/11/29)がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエン(Silesian)をプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因なるも、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となる、実質の世界大戦。
RML7インチ沿岸防御砲

アセンション 1985 発行
イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランス・オーストリア・ロシアスペイン・スウェーデン)に分かれてオスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦して、戦闘はヨーロッパ以外にも拡大。またインドではムガール帝国がフランスの支持をうけて、イギリスによるベンガル地方への侵攻を阻止しようとしました。この戦争の前にフランスとオーストリアは、台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために古くからの因縁を捨てて同盟を結ぶ(外交革命)も戦争の結果、墺仏の外交努力は英普側が勝利したことで水泡と化し、イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、ヨーロッパの勢力均衡を変える結果となりました。

プロイセンとオーストリアの対立(1756-1763)を軸とした戦争で、イギリスが前者を、フランス・ロシアが後者を支援、ヨーロッパ全域での戦争となったばかりでなく、イギリス・フランスは北米とインド植民地でも戦争し、戦闘は世界規模で広がりました。プロイセンとオーストリア間ではシュレージェンの帰属を決定する戦争となったので、第3次シュレジェン戦争とも言われます。同時にイギリスとフランスの植民地における英仏植民地戦争(第2次英仏百年戦争)も並行して行われ、世界的な広がりを持つ戦争となりました。結果はプロイセンとイギリスの勝利となり、ヨーロッパでのプロイセンとイギリスの地位を向上させ、イギリスの植民地帝国としての繁栄がもたらされました。同時にこの戦争は絶対王政各国の財政を圧迫し、イギリスからのアメリカ独立戦争、フランスではフランス革命という市民革命が起こる契機となりました

イギリスとフランスの間の戦闘は1763年のパリ条約で終結。条約は複雑な領土交換を定め、そのうち一番影響が大きいのはフランスがルイジアナをスペインに、それ以外のヌーベルフランスの領土をサンピエール島およびミクロン島を除いて全てイギリスに割譲したことでした。フランスにはヌーベルフランスかカリブ海のグアドループとマルティニークを手中に残す選択肢が与えられるも、最終的には砂糖を産出する後者を選び、ヌーベルフランスを非生産的で維持コストの高い植民地として切り捨てました。フランスはまた、ミノルカ島をイギリスに返還。スペインはフロリダをイギリスに奪われるも、フランスからイル・ドルレアン(Ile d'Orleans, Louisiana、現ニューオーリンズ)とミシシッピ川より西側にあるフランス領全てを取得。イギリスはすでにいくつかのカリブ海の島を領有しており、砂糖に事欠かなかったためヌーベルフランスとの交換に呼応。イギリスはヌーベルフランスとフロリダを併合したことでミシシッピ川より東側の北アメリカを全て支配下に置いたため、この領土交換はイギリスを利するものでした。インドではイギリスが北サルカールを保持するも、フランスの交易地は全て返還。しかし、条約ではフランス交易地の要塞を全て破壊することと、その再建の禁止が定められており、駐留軍も最低限しか認めず、軍事基地としては無価値となった。さらにフランスに同盟したベンガル太守が廃位され、ニザーム王国もイギリスに寝返ったため、フランスはインドにおける勢力をほとんど失い、イギリスがインドにおける主導権を握り、やがてインド亜大陸全体を支配下に置く結果となりました。フランス海軍も戦争で大損害を被り、スペインとともに大規模な再建を経てアメリカ独立戦争などの次の戦争でようやくイギリスの制海権に挑戦することができるようになった。
参考HP:〜
シュレージェン(シレジア)の場所地図

<海戦>:〜
▼(3)ミノルカ島の海戦
 (Battle of Minorca, 1756/5/20)フランスの勝利
ミノルカ島の海戦は七年戦争初期の1756年にバレアレス諸島のミノルカ島沖で勃発した海戦。イギリス艦隊がジブラルタルへ撤退したため、フランスのガリソニエール侯爵が戦略的に勝利する結果となってミノルカ島陥落
仏英の戦艦隊 主力 その他 司令官 サフレン乗艦
・フランス 戦列艦12隻 フリゲート艦5隻 ガリソニエール侯爵 オルフェ号
・イギリス 戦列艦12隻 フリゲート艦7隻 ビング提督
パレアレス諸島

スペイン 1981 発行
フランス艦隊:〜 戦列艦 フランスのフリゲート艦
ミネルヴァ号


ジブラルタル 2007 発行
オルフェ号 Orphee 64 捕獲、デュケーヌ提督旗艦
・ヒポポタマス号 Hippopotame 50 カバに因む命名
・リダウタブル号 Redoutable 74
・セージ号 Sage 64
・ゲリエ号 Guerrier 74
・フィエル号 Fier 50
・フードロヤント号 Foudroyant 80 旗艦
・テメレア号 Temeraire 74
・コンテンツ号 Content 64
・ライアン号 Lion 64 アメリカのブリッグスループ艦
ホーネット号


パラグアイ 1975 発行
・クロンヌ号 Couronne 74
・トリトン号 Triton 64
フリゲート Attached frigatesその他5隻
・ジュノン号 Junon 46
・ローズ号 Rose 30
・グレイシーズ号 Gracieuse 30
・トパーズ号 Topaze 26
・ニンフ号 Nymphe 26
イギリス艦隊:〜 戦列艦 イギリス戦列艦
ヴァンガード号

ジブラルタル 2007 発行
・デファイアンス号 Defiance 60
・ポートランド号 Portland 50
・ランカスター号 Lancaster 66
・バッキンガム号 Buckingham 70 フィリップス提督
・イントレピッド号 Intrepid 64
・リヴェンジ号 Revenge 64
・プリンセス・ルイーズ号 Princess Louise 60
・トライデント号 Trident 64
・ラミリーズ号 Ramillies 90 ビング提督の旗艦
・カローデン号 Culloden 74
・キングストン号 Kingston 60
. フリゲート Attached frigates、その他7隻
・チェスターフィールド号 Chesterfield 44 5等艦(Fifth-rate frigate)
・エクスペリメント号 Experiment 24 6等艦(Sixth-rate)
・ドルフィン号 Dolphin 24 6等艦
・フェニックス号 Phoenix 24 6等艦
・フォーチュン号 Fortune 14 ブリッグスループ(brig-sloop)
その他 2隻
ビング提督の処刑:〜
戦後イギリス艦隊のジョン・ビング提督に銃殺刑が宣告されて大きな波紋を呼び、1757/3/14にイギリス本土とワイト島を分けるソレント海峡(Solen straitt)にて三等戦列艦モナーク号(HMS Monarch 74gn)艦上で処刑された。
参考HP:〜
ミノルカの海戦の艦隊配置図


▼(4)カルタヘナの海戦
 (Battle of Cartagena, 1758/2/28)イギリスの勝利
カルタヘナの海戦は七年戦争中の、スペインの地中海側カルタヘナ港(port of Cartagena)沖でおきた海戦。カルタヘナに停泊しているフランス艦隊を封鎖していた英ヘンリー・オズボーン(Admiral Henry Osborn, 1694-1771)艦隊が、その封鎖を解こうとした仏ミシェル=アンジュ・デュケーヌ・ド・メネヴィル(Michel-Ange Duquesne de Menneville, 1700-1778)艦隊を撃退。封鎖が解けなかったことでイギリス軍に包囲されている北アメリカのルイブール(Louisbourg)への支援が限定的なものとなり、ルイスビル要塞は同年に降伏。
フランス艦隊戦列艦

マーシャル諸島 1998 発行
仏英の艦隊 主力 司令官 サフレン乗艦
・フランス 戦列艦4隻 デュケーヌ提督 オルフェ号
・イギリス 戦列艦4隻 オズボーン提督
フランス艦隊:〜
フランス艦隊 戦列艦
・フードロヤント号 Le Foudroyant 80 捕獲、デュケーヌ旗艦
・オルフェ号 L'Orphee 64 捕獲
・オリフラム号 L'Oriflamme 50 自沈・沈没
・オセアン号 Ocean 80 ラゴスの海戦アルマドラ湾座礁、中立法違反で英軍焼却
※フードロヤント号(Foudroyant, 80-gun ship of the line, 1758)は降伏してデュケーヌ提督が捕虜となり、捕獲されて英艦フードロヤント号(Third Rate HMS Foudroyan)となる。
イギリス艦隊:〜
イギリス艦隊 戦列艦
モナーク号 HMS Monarch 74
・モンマス号 HMS Monmouth 70 ガーディナー艦長(Cpt. Arthur Gardiner)戦死
・モンタグ号 HMS Montagu 60
・リヴェンジ号 HMS Revenge 64
参考HP:〜
カルタヘナの海戦図


▼(5)ラゴスの海戦
 (Battle of Lagos, 1759/8/18・19)イギリスの勝利
ラゴスの海戦は七年戦争中、仏ルイ15世政府がイギリスに侵攻したのをイギリス艦隊が阻止するため、ジブラルタルポルトガル南岸ラゴスとの間の沖合で、イギリス艦隊とフランス艦隊とが戦った海戦。イギリスが勝利した後、仏クルー・サブラン伯爵は致命傷を負ってポルトガル陸岸で戦死。カディスに逃げたフランス艦5隻は英ボスコーエン提督の副将ブロデリック提督(Admiral Brodrick)に封鎖された。フランス艦隊の敗北で、イギリス侵攻計画はその主要部分のブレスト艦隊とツーロン艦隊の合同に失敗するも、フランスは攻撃をあきらめず、攻計画は11月のキブロン湾の海戦でのフランス海軍の敗北によってようやく破棄された。
フランス74門戦列艦

Le vaisseau de 74 canons
セント・ヴィンセント 1989 発行
イギリス・フランスの艦隊編成はこちら
参考HP:〜
ラゴスの海戦の場所地図


・ミノルカ包囲戦<七年戦争>
 (Siege of Minorca, 1756/4月-6/29)フランスの勝利
  別名:セント・フィリップ砦包囲戦
  (Siege of Fort St Philip, 1756/4-6/29)
リシュリュー公爵率いるフランス軍はミノルカ島に上陸して、セント・フィリップ城(Fort St Philip)のイギリス駐留軍を長期間包囲した後、降伏させた。ビング提督率いるイギリスの救援軍は出撃するも、ミノルカ島の海戦で敗北するとジブラルタルに撤退してしまい、駐留軍はここで抵抗をやめて降伏。ビング提督はミノルカ陥落を責められ、銃殺刑に処された。この戦いに後のオーストラリア初代ニューサウスウェールズ州総督アーサー・フィリップが参加していた。駐留軍の抵抗は長く、名誉あるものとされ、当時の慣習に従って武装保持したままイギリスに送還された。ブレイクニー中将はこの努力を表彰されアイルランド貴族のブレイクニー男爵に叙された。
パレアレス県
民族衣装


スペイン 1967 発行
ホーク提督のイギリス艦隊がビング提督と交代でミノルカ沖に到着するも、包囲と上陸をするには部隊が足らず、マルセイユ沖で3ヵ月間航行した後に帰国。もし海上封鎖していたら兵糧攻めで降伏させられたということでホーク提督は帰国後、行動を批判された。フランスは終戦までミノルカ島を維持するも、同島は終戦時点でフランスが唯一占領していたイギリス領だった。パリ条約(1763)ではイギリスに占領されたグアドループと交換で返還された。ミノルカ島は1781年にスペインに占領され、そのままスペインに割譲された。
仏英の戦力 兵力 司令官 支援艦隊司令官
・フランス 約15,000人 リシュリュー公爵 ガリソニエール提督
・イギリス 約2,800人 ビング提督 ビング提督
参考HP:〜
パレアレス諸島の場所地図


・キブロン湾の海戦
 (Battle of Quiberon Bay, 1759/11/20)イギリスの勝利
キブロン湾の海戦は七年戦争中にビスケー湾内仏ブルターニュ地域圏モルビアン県キブロン湾(Quiberon Bay, Mor-Bihan departement, Brittany, Frence)でイギリスとフランス両艦隊の間で戦われた海戦。イギリスのホーク提督艦隊の戦列艦23隻が、フランスのコンフラン伯爵艦隊の戦列艦21隻を捕捉して激しい戦いの末、そのほとんどを沈め、捕獲し、あるいは座礁させた。イギリス海軍にとって最も輝かしい勝利の一つとされる海戦。
仏英の戦艦隊 主力 その他 司令官
・フランス 戦列艦21隻 フリゲート艦6隻 コンフラン伯爵
・イギリス 戦列艦23隻 フリゲート艦5隻 ホーク提督
フランス艦隊:〜 戦列艦
第1分隊
・ソレイユ・ロワイヤル号 Soleil Royal 80 コンフラン提督旗艦、座礁ののち自焼
・オリアン号 Orient 80 旗艦、ロシュフォールへ逃走
・グロリュー号 Glorieux 74 ヴィレーヌ河口へ逃走 帆船 戦列艦

タンザニア 1994 発行
・ロビュスト号 Robuste 74 ヴィレーヌ河口へ逃走
・ドーファンロワイヤル号 Dauphin Royal 70 ロシュフォールへ逃走
・ドラゴン号 Dragon 64 ヴィレーヌ河口へ逃走
・ソリテール号 Solitaire 64 ロシュフォールへ逃走
第2分隊
・トナン号 Tonnant 80 旗艦、ロシュフォールへ逃走
・アントレピード号 Intrepide 74 ロシュフォールへ逃走
・テゼー号 Thesee 74 下層砲門から浸水して沈没
・ノーサンバーランド号 Northumberland 70 ロシュフォールへ逃走
・シューペルブ号 Superbe 70 下層砲門から浸水して沈没
・エヴェイエ号 Eveille 64 ヴィレーヌ河口へ逃走
・ブリーヤン号 Brillant 64 ヴィレーヌ河口へ逃走
第3分隊
・フォルミダブル号 Formidable 80 旗艦、捕獲
・マニフィック号 Magnifique 74 ロシュフォールへ逃走
エロース号 Heros 74 降服するも翌日の荒天で座礁・焼却
・ジュスト号 Juste 70 ロワール河口で破壊
・アンフレクシブル号 Inflexible 64 ヴィレーヌ河口にて喪失
・スフィンクス号 Sphinx 64
・ビザール号 Bizarre 64 ロシュフォールへ逃走
フリゲート、コルベット他
・エベー号 Hebe 40 ブレストに帰還
・ヴェスタル号 Vestale 34 フリゲート、ヴィレーヌ河口へ逃走
・エーグレット号 Aigrette 36 ヴィレーヌ河口へ逃走
・カリプソ号 Calypso 16 ヴィレーヌ河口へ逃走
・プランス・ノワール号 Prince Noire 6 ヴィレーヌ河口へ逃走
・ヴァンジャンス号 Vengeance
イギリス艦隊:〜 戦列艦 イギリスの戦列艦
ヴィクトリー号


ジブラルタル 2007 発行
・ロイヤル・ジョージ号 Royal George 100 ホーク提督旗艦
・ユニオン号 Union 90 ハーディ提督旗艦
・デューク号 Duke 80
・ナムール号 Namur 90
・レゾリューション号 Resolution 74 座礁
・ヒーロー号 Hero 74
・ウォースパイト号 Warspite 74
・ハーキュリーズ号 Hercules 74
・トーベイ号 Torbay 70
・マグナニム号 Magnanime 70 ハウ艦長
・マーズ号 Mars 70
・スウィフトシュア号 Swiftsure 70
・ドーセットシャー号 Dorsetshire 70
・バーフォード号 Burford 70
・チチェスター号 Chichester 70
・テンプル号 Temple 70
・エセックス号 Essex 64 座礁
・リヴェンジ号 Revenge 64
・モンタギュー号 Montague 60
・キングストン号 Kingston 60
・イントレピッド号 Intrepid 60
・ダンカーク号 Dunkirk 60 帆船 フリゲート艦

タンザニア 1994 発行
・デファイアンス号 Defiance 60
補助艦隊
・チャタム号 Chatham 50 4等戦列艦
・ミナーヴァ号 Minerva 32 5等※
・ヴィーナス号 Venus 36 5等※
・ヴェンジャンス号 Vengeance 28 6等※
・コヴェントリー号 Coventry 28 6等※
・サファイア号 Sapphire 32 5等※
・メイドストーン号 Maidstone 28 6等※
  ※フリゲート艦
参考HP:〜
キブロン湾の地図
キブロン湾の場所地図(Google Map)


<休戦条約>七年戦争(1756-1763)
七年戦争の開戦は、オーストリア・ハプスブルク家のマリア・テレジアが、オーストリア継承戦争によってプロイセンに割譲されたシュレージエン地方の奪回を企図し、外交革命を決行して宿敵であったブルボン家のフランス王国と防御同盟(1756)を結んで、大王フリードリヒ2世のプロイセンに対抗したため、フリードリヒ2世が先制防衛策をとることに決め、ザクセン公国に侵攻したことによって始まった戦争。
艦載砲

アセンション 1985 発行
・休戦条約:〜
 パリ条約(Treaty of Paris、1763、英仏ス)など
 ・フベルトゥスブルク条約(1763)プロイセン王国、オーストリア・ザクセン
   (Treaty of Hubertusburg, 1763/2/15)
   プロイセンのシュレージエン領有の確定とアーヘンの和約の再確認
 ・ハンブルク条約 (1762)スウェーデンとプロイセン王国
   (Treaty of Hamburg, 1762/5/22)
   ロシア帝国が1762/5/5にプロイセンと単独講和し、さらに同盟したことで、スウェーデンは
   独力で戦争を続けることが不可能となったため、条約では原状回復が定められ、
   スウェーデンはストックホルム条約で失ったポンメルンの領土の奪回に失敗。
 ・フォンテーヌブロー仮条約(1762)イギリス・フランス・スペイン
   (Treaty of Fontainebleau, 1762/11/13)
   フランス王国とスペイン王国の間の秘密条約、フランスはルイジアナをスペインに割譲
 ・パリ条約が締結される、イギリス・フランス
   (Treaty of Paris、1763/2/10)
   パリ条約は、ヨーロッパの七年戦争と北アメリカ大陸のフレンチ・インディアン戦争とインドの
   カーナティック戦争などの講和条約。イギリス、フランス、スペインの間で締結され、
   欧州外での覇権は(西欧諸国の中では)イギリスが握る時代の幕開けとなった。
 ・サンクトペテルブルク条約 (1762年)、プロイセン王国とロシア帝国
   (Treaty of Saint Petersburg, 1762/5/5)
   1759/8/12にフリードリヒ大王率いるプロイセン軍はクーネルスドルフの戦いで惨敗。オーストリアとロシアの連合軍によって2万近い将兵を失った大王はかろうじてオーデル川左岸の小村に逃れたものの、つき従う軍勢は3千に過ぎず、事態はもはや絶望的と思われた。その時に奇跡てきに、フリードリヒ大王贔屓のロシア帝国ピョートル3世がスウェーデンとの和平交渉の仲介を約束して、援軍1万8千も約束し、さらにロシア軍の全占領地をプロイセンに返還。


・ムガール帝国
 (Mughal Empire, 1526-1858)
1526年にアフガニスタンから侵攻したバーブル帝がインドのデリーに建国したイスラム国家。16世紀後半のアクバル帝の時に基礎が築かれ、17世紀後半のアウラングゼーブ帝時代に最盛期となり、ほぼインド全域を支配するも、ヒンドゥー教徒との融和策を廃棄したことから衰退し、18世紀にはイギリス・フランスの侵攻を受けて弱体化。1857年のインド大反乱で翌年滅亡。ティムール帝の5代の孫に当たるバーブル帝がインドに開いたイスラム教スンナ派を奉じる王朝。ムガールとは、中央アジアで言うモンゴルのこと。バーブル帝がティムール帝(ジンギス・ハンの子孫と称していた)の家系につながっていることから、自らをモンゴル系と称していた。
ムガールの 赤い城

Red Fort by Shah Jahan 1648
インド 1949 発行
公用語はペルシア語が用いられた。文化面ではデリー・スルタン朝に始まるイスラム文化とインド文化の融合が進み、インド・イスラム文化が開化。南アジアにはムガール帝国のユネスコ世界遺産でインドにおけるイスラム芸術の至宝「アーグラ城塞、ファテープル・シークリー、赤い城(Red Fort)、フマーユーン廟、ラホール城、タージ・マハール」が有。
ムガール帝国は約2世紀にわたって、西はインダス川流域、北西はアフガニスタン北部、北はカシミール地方、東は現在のアッサムやバングラデシュの高地、南はデカン高原の高地まで広がっていた。1526年に現在のウズベキスタン出身の戦士バーブル(Zahiral-Din Muhammad Babur、1483-1530)が、近隣のペルシア(現イランイラン)のイスラム王朝サファヴィー朝(Safaviyan, 1501-1736)やオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299-1922)からの援助を受けて、第一次パーニーパットの戦い(First Battle of Panipat、1526/4/21)でアフガン系イスラム王朝デリー・スルタン朝(Lodi dynasty、1451-1526)のイブラヒム・ローディー(Ibrahim Lodi, 生年不詳-1526/4/21)を破り、上インドの平原を制圧して建国したと言われている。ムガル帝国の帝国構造は、バブールの孫の第3代君主アクバル大帝(Akbar the Great, 在位:1556-1605)が支配した1600年までとされることも有。この帝国構造は、最後の主要皇帝アウラングゼーブ(Aurangzeb, 北インド・ムガル帝国第6代君主, 在位:1658-1707)が亡くなった直後の1720年まで続き、その間に帝国の地理的範囲は最大となった。その後、特にイギリス東インド会社(East India Company, 1757-1858)がインドを支配していた時代には、オールドデリー周辺に縮小されるも、1857年のインド大反乱(Indian Rebellion of 1857, セポイの乱, 1857/5/10-1858/11/1)を機に、イギリス領インド帝国(Indin Empire, 1858-1947)によって正式に解体された。
ムガル帝国は軍事的な戦いによって形成され、維持されたが、支配することになった文化や民族を強力に抑圧するのではなく、新しい行政手法を確立し、多様な支配エリートを取り込むことでバランスをとり、より効率的で中央集権的かつ標準的な支配を実現した。帝国の総資産の基盤となったのは、第3代皇帝アクバルが制定した農業税であった。農民の生産量の半分以上に相当するこの税金は、統制のとれた銀貨で支払われ、農民や職人がより大きな市場に参入するきっかけとなった。17世紀の大半の期間、帝国が比較的平和を保っていたことも、インドの経済拡大の要因となった。インド洋でのヨーロッパの存在感が高まり、インドの生鮮品や完成品に対する需要が高まったことで、ムガル帝国の宮廷にはさらに大きな富がもたらされた。ムガル帝国のエリートたちの間では目立った消費が行われるようになり、特にシャー・ジャハーンの時代には、絵画、文学、織物、建築への庇護が拡大した。マイソール王国は、ムガール帝国第6代皇帝アウラングゼーブ帝(在位1658-1707)が南インドを征服すると、ヒンドゥー教国としてその勢力下に置かれ、その宗主権を認め朝貢していた。
参考HP:〜
ムガール帝国の場所地図(インドの地図)
ムガール帝国の最大版図地図(インドの地図)



参考HP:〜
七年戦争の紛争地域の地図(七年戦争の全参加国の地図)
(イギリス、プロイセン、ポルトガル、同盟国 フランス、スペイン、オーストリア、ロシア、スウェーデンと同盟国)

こちらで
サフレン提督
・戦歴(1):オーストリア継承戦争
・戦歴(3):アメリカ独立支援戦争
・戦歴(4):アメリカ独立革命戦争
東海道53次日本
世界遺産
富士山 (日本)
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.3/12/3(2021)
スタンプ・メイツ
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