France

国連 1980 発行
切手で綴る 海戦大航海(Naval Battle Voyages)
アンドレ・ド・サフレン提督
1783
インド東岸カッダロールの海戦勝利

大航海物語
フランス編

REPUBLIQUE FRANCAIES
サフレン提督 インド洋方面航海地図

Suffren, 1729-1788
フランス 1988/2/20 発行 2.0+0.5=2.5f 寄付金付
ORDINE DI MALTA
サフレン提督

1788 サフレン提督没後200年記念 1988
マルタ騎士団 1989 発行
MARSHALL ISLANDS
フランス艦隊

マーシャル諸島 1998 発行

CEYLON
インド洋と東南アジアの地図

1947 国連エカフェ25年記念 1972
セイロン 1972/5/2 発行




イギリス戦艦

REPUBLIQUE FRANCAIES
ポルトプラヤの海戦、エロース号の戦う砲列甲板の図

Chromo Suffren a la Bataille de La PRAYA, 1781
サフレン提督とインド洋方面艦隊エロース号の戦う砲列甲板図
フランス 1988 発行(絵葉書)





サフレン艦長


撃たれた砲術士官

フランス南東プロヴァンス地方生れのサフレン提督は14才で海軍士官学校に入隊後にオーストリア継承戦争に従軍してカリブ海やカナダ方面で戦いました。士官学校卒業後にフィニステレ岬の海戦に従軍して乗艦が捕獲されてイギリスの捕虜になって戦争が終わると釈放されました。平和になるとマルタ島のマルタ騎士団のガレオン船隊に参加しました。七年戦争が勃発すると数々の海戦で戦いました。戦争が終わって平和な時期を迎えると再びマルタ騎士団に参加しました。アメリカ独立戦争が勃発してフランスが参戦すると新大陸アメリカ方面などで戦った後にインド洋方面のフランス艦隊総司令官として戦って1783年にインド東岸カッダロールの海戦でイギリスのヒューズ提督艦隊をマドラスへ敗退させるなど多くの海戦を戦いました。戦争が終わるとフランス国王に大いに称賛されました。フランスとイギリスの間で再び緊張が高まると対英艦隊の編成を命ぜられて準備中に突然に亡くなりました。
海軍中将ピエール・アンドレ・ド・サフレン・ド・サン・トロペ伯爵
 Vice Admiral Comte Pierre Andre de Suffren de Saint Tropez, bailli de Suffren
 生地:南フランスのブーシュデュローヌ県サン・カナ城 生
   (Chateau de Saint-Cannat, Bouches-du-Rhone Department, France, 1729/7/17)
   (プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ブーシュデュローヌ県エクス=アン=プロヴァンス郡サン・カナ
 没地:イル=ド=フランス(パリ)地域圏パリ 59才 没
   (Paris, Ile-de-France(Paris) Region, France, 1788/12/8)
 伯爵の称号、コンテ ”Comte”
 マルタ騎士団の称号、バイリ・デ・サフレン ”Bailli de Suffren”
 ・フランス海軍中将(French Navy, 1743-1784)Vice Admiral, 1784)
 ・仏海軍インド艦隊総司令官(General Commander of the Indian Ocean squadrons)
 ・マルタ騎士団ガレー艦隊将軍(General of the Galley of Malta)
 受勲:フランスの聖霊勲章(Order of the Holy Spirit)
 受勲:マルタ騎士団のナイト・ホスピタラー勲章 (Knights Hospitaller)など。

---------目 (MENU) 次--------
・序 章:生立ちの記
 ・第1節:サン・カナ城
・第1章:オストリア継承戦争の記
 ・第2節:ギャルド・マリン
 ・第3節:マルタ騎士団
・第2章:七年戦争の記
 ・第4節:英ビング提督
 ・第5節:英オズボーン提督
・戦記(1):オーストリア継承戦争
・第3章:平時の記
 ・第6節:バーバリイ海賊討伐
 ・第7節:マルタ島
・第4章:アメリカ独立戦争支援の記
 ・第8節:フランスの参戦
 ・第9節:英艦隊との戦い
・第5章:インド洋作戦
 ・第10節:英ヒューズ提督
・戦記(2):七年戦争(海戦)
・第6章:帰国の記
 ・第11節:突然の死
・年 表:生涯リスト
・従 軍:従軍の海戦歴
・帆 船:エロース号

・艦 艇:座乗艦リスト
・付 録:仏艦隊司令官名
・付 録:英艦隊司令官名

・戦記(3):アメリカ独立革命戦争


▼序 章:生いたちの記
 (Early life)

REPUBLIQUE FRANCAIES
フランスのシャトー(城)

フランス 1952 発行
・第1節:サン・カナ城
  (Chateau de Saint Cannat)
サフレン提督はイタリアのトスカーナ州北西部ルッカ県ルッカ(Lucca, Lucca Province, Tuscany Region, Italy)からフランスへ14世紀に移住してきたサントロペ侯爵(Marquis Paul de Suffren, Saint Tropez)の第3子として、フランスのプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ブーシュ・デュ・ローヌ県(Bouches-du-Rhone department, Provence-Alpes-Cote d'Azur, France)サン・カナ城で誕生しました。

▼第1章:オーストリア継承戦争従軍の記
  (War of the Austrian Succession, 1740-1748)
・第2節:海軍士官学校ギャルド・マリン
  (Gardes de la Marine, 1670-1786)※
1743/10月にオーストリア継承戦争が激化したため、14才のサフレン少年は地中海沿岸リオン湾東端のフランス軍港ツーロン(Toulon)に行き、1670年にリシュリュー枢機卿が創立した、若い貴族の子弟を海軍士官にするための士官学校ギャルドマリン(Gardes-Marin)に士官候補生(Midshipman)として入隊。
リシュリュー公爵

フランス 1970 発行
そのわずか6ヵ月後の1744年に64門戦列艦ソリデ号に乗艦してツーロンの海戦に従軍。戦闘中にソリデ号は英70門戦列艦ノーサンバーランド号(HMS Northumberland, 70gn)と交戦しました。
※ギャルド・マリンは、フランス大革命(1789)前の
※アンシャンレジーム時代(Ancien regime:古い体制)の海軍士官学校。

1745年の春、サフレン候補生は男爵マック・ネマラ提督艦隊(戦列艦5隻とフリゲート艦2隻)のフリゲート艦ポーリン号に乗艦、イギリス軍を攻撃するためにカリブ海の西インド諸島へ遠征航海しました。

1746年の帰国後にサフレン候補生は、デェストゥルメル艦長(Captain d'Estourmel)の60門戦列艦トライデント号に乗艦、ダンヴィユ公爵遠征隊(Duc d'Anville expedition, 1746/6月-10月)に参加。遠征隊は艦船64隻に陸軍兵士11,000人を乗せていました。遠征隊艦隊はツーロン軍港を、カナダのノヴァスコシア州ケープ・ブレトン(Cape Breton)の奪還攻撃と、西インド諸島遠洋航海クルーズに出帆するも、ノバスコシア州ルイスバーグ要塞(Fortress of Louisbourg)奪還攻撃は失敗するし、船は難破して破壊されるし、その上に発疹チフス・赤痢・壊血病などの疫病発生という悲惨な遠征航海となりました。

1747年にサフレン候補生は海軍士官学校ギャルド・マリンを卒業して少尉(Sub-Lieutenant)に任官。ラ・ベドイエール(Captain La Bedoyere)艦長の新造74門艦モナーク号に乗艦してレステンデュエール侯爵艦隊に参加。1747/10/25にビスケー湾でフランス船団の護送中に、キブロン湾の海戦でイギリス侵入をもくろむフランス海軍を撃破したイギリスホーク提督の襲撃を受けた第二次フィニステレ岬の海戦に遭遇。そこでラ・ベドイエール艦長が戦死して、ひどく損傷したモナーク号が捕らえられ、サフレン少尉は捕虜に フランス海軍の戦列艦

セント・ヴィンセント 1989 発行
なりました。1748年に独アーヘンで結ばれたオーストリア継承戦争の講和条約のアーヘンの和約が平和を回復してサフレン少尉は釈放されました。

・第3節:マルタ騎士団
  (Sovereign Order of Malta, c1023〜)
その後の1748年中に地中海のマルタ島ヘ数度にわたる航海をなしてマルタ騎士団に加わり、騎士の称号ナイト(Knight、名誉と献身の騎士)を授与されました。サフレン少尉は騎士団のガレー船でいくつかの商業遠征に参加し、商船を護衛し、北アフリカ沿岸のバーバリー海賊(Barbary pirates)討伐の航海でバーバリー海賊から商船を守り、それはギリシャへの平和な航海となりました。
参考HP〜
マルタ騎士団の公式HP

1754年後半、サフレン少尉はマルタを出発してツーロン港に戻りました。
マルタ騎士団の旗印

フランス 1956 発行
▼第2章:七年戦争従軍の記
  (Seven Years' War、1756〜1763)
・第4節:英ビング提督と対戦
ツーロン港に戻ったサフレン少尉は1756年に中尉(Lieutenant)に昇進。七年戦争の勃発時にサフレン中尉は、ミノルカ島を攻撃するために第3代リシュリュー公爵の下で12,000人の兵士を輸送する任務につきました。侯爵ガリソニエール艦隊12隻のオルフェ号に乗艦。艦隊は1756/4/10に出帆。17日に地中海バレアレス諸島メノル カ島に到着して軍隊を上陸させました。イギリス軍の駐屯軍はセントフィリップ城(St. Philip's Castle)に撤退し、ミノルカ包囲戦(セントフィリップ砦包囲戦, 1756/6/29)の後で降伏しました。東のマオー港(Port of Mahon)のセントフィリップ城を支援するための英国の救援を防ぐためにミノルカ島とマジョルカ島の間を巡視したガリソニエール艦隊は、英ビング提督艦隊13隻を迎撃してミノルカの海戦が勃発。1756/5/20にフランス艦隊はミノルカ島イギリス要塞のセントフィリップ砦包囲戦の支援海戦でビング提督艦隊を打ち負かして勝利。英軍はフランスの封鎖を破れず、セントフィリップ砦は、1756/7/29に陥落しました。

・第5節:英オズボーン提督と対戦
1757年、サフレン中尉はサブラン伯爵艦隊(戦艦6隻とフリゲート艦2隻)の旗艦80門戦列艦オセアン号に移動。艦隊は11月にトゥーロン港をブレスト港へと出帆。12/7にカルタヘナ港で補給中、英オズボーン提督艦隊に封鎖されました。仏の救援隊デュケーヌ侯爵艦隊は封鎖を破ろうとするも、サブラン伯爵艦隊が出撃に失敗して、スペイン地中海岸沖のカルタヘナの海戦で、1758/2/28に撃破されて80門戦列艦フードロヤント号とオルフェ号が英艦隊に捕獲されました。サブラン伯爵艦隊は最終的にトゥーロン港に戻りました。その後、トゥーロン港は英ボスコーエン提督の艦隊に封鎖されるも、1758/8/16にサブラン伯爵艦隊が戦艦12隻とフリゲート艦3隻で脱出。英偵察隊フリゲート艦ジブラルタル号(HMS Gibraltar)がサブラン伯爵艦隊を発見してボスコーウェン提督に報告。ボスコーウェン提督は迎撃に移動。その間、フランス艦隊は編成を維持できずに散らばっていました。そしてラゴスの海戦オセアン号ポルトガル南岸ラゴス付近のアルマドラ湾(Almadora Bay)で座礁してイギリス軍に焼かれました。その乗組員は、1757/8/19にサフレン中尉共々捕虜になりました。サフレン中尉は数ヵ月後にフランスに戻るも、数年間は海上勤務ができず陸者(おかもの)になりました。七年戦争の休戦条約

▼第3章:平時の記(平和な一時、戦間期)
  (Interwar period)
・第6節:バーバリイ海賊討伐
1763年に平和が戻ると利益の上る船団護送の任務に就こうと思うも、北部地中海沿岸のバーバリイ海賊(Barbary pirates)討伐のフランス艦隊(French Squadron)ジーベックカメレオン号の艦長に指名されました。1765年にベスネ提督艦隊ジーベック艦シング号艦長となった後、モロッコタンジール近郷タンジェ=テトゥアン=アル・ホセイマ地方(Tanger-Tetouan-Al Hoceima, Morocco)の都市ララシュの遠征攻撃に参加してモロッコ沖で戦いました。1767年、ブルニョン提督艦隊に参加するためブレスト軍港へ呼び戻されて帰国後、1767/8/18に艦隊の旗艦フリゲート艦ユニオン号の艦長に任命されました。

・第7節:マルタ島
1767年後半、サフレン少尉はマルタを出発してツーロン港に戻って中尉に昇進。サフレン中尉は遠征の終了後の4年間(1767〜71)、マルタ島に戻ってマルタ騎士団から第二階級(上級騎士)の称号ナイト・イン・オヴィディエンス(Knight in Ovidence 、忠誠の騎士)の称号を授与され、バーバリイ海賊掃討作戦のガレー船艦隊司令官(Commander:コマンダー)になって船舶の護衛任務を再開し、4年間を過ごしました。
1772/2月にツーロンに戻って、サフレン大尉はフランス海軍の少佐に昇進し、フリゲート艦ミニョン号の艦長に任命され、東地中海での哨戒任務(Patrol)を実施しました。
ガレー船

ブルガリア 1986 発行

1776年、ベヌ提督はサフレン中佐をフリゲート艦アルクメーネ号の艦長に任命しました。アルクメーネ号は新しい海軍士官を訓練するための訓練航海に出帆。その時からアメリカ独立戦争の始まりまで、サフレン中佐はフランス政府がその将校を訓練する目的で設立した最新艦隊を指揮しました。1771-1780年の間は北アメリカと西インド諸島での海戦に活躍しました。

▼第4章:アメリカ独立戦争支援従軍の記
  (War of American independence, 1775-1783)
・第8節:フランスの参戦
  (France's participation American War of Independence)
アメリカ独立戦争中の1778年初頭にフランスとイギリスの間で緊張が高まり、リザード岬沖の海戦(1778/6/17)が勃発して、アメリカ独立戦争へのフランスの参戦を実現することになりました。1778年にサフレン中佐はアジア・アメリカ方面司令官デェスタイン提督艦隊の戦列艦ファンタスク号艦長に任命され、戦列艦とフリゲート艦3隻からなる艦隊を率いました。
デェスタイン提督

コート・ジボアール 1975 発行

・ナラガンセット湾の海戦
  (Battle of Narragansett Bay, 1778/8/5)フランスの勝利
サフレン艦隊の使命は膠着状態の仏英両軍が対峙するロードアイランド戦いでのフランス系アメリカ人を支援することで、ロードアイランド州ニューポート沖ナラガンセット湾(Narragansett Bay, Rhode Island Sound, Newport, Rhode Island)に停泊しているイギリス艦隊のフリゲート艦5隻を攻撃することでした。1778/8/5にファンタスク号乗艦のサフレン中佐は艦隊をナラガンセット湾に入れてイギリス艦隊の隣に停泊。イギリス艦隊は捕獲を避けるためにケーブルを切断してフリゲート艦5隻を含む全部で10隻を破壊して自沈しました。
ナラガンセットの艦隊 主力 司令官 サフレン乗艦
・フランス 戦列艦4隻 デェスタイン提督 ファンタスク号
・イギリス フリゲート艦5隻 ビング提督
フランス艦隊 Fleet イギリス・フリゲート艦
アレトォサ号

ジャージー 1987 発行
ファンタスク号 Ship Fantasque
・エイマブル号 Frigate Aimable
・チメール号 Frigate Chimere
・エンゲージアンテ号 Frigate Engageante
英フリゲート艦 Frigates
・ジュノー号 HMS Juno
・フローラ号 HMS Flora
・ラーク号 HMS Lark
・オルフェウス号 HMS Orpheus
・セレバス号 HMS Cerebus。
参考HP:〜
ロード島&ナラガンセット湾の場所地図(ロードアイランドは”Newport”の島)

・第9節:英艦隊との戦い
  (アメリカ独立戦争支援:1775-1783)
1778/8/20にフランス艦隊はナラガンセット湾をマルティニークに向けて出帆。そこでサフレン艦隊が合流してグレナダに向かい、1779/7/6にグレナダの海戦が勃発しました。ファンタスク号は前衛の前にあり、74門戦列艦ゼール号に先行していました。仏英の艦隊が接触したとき、仏艦隊は英ロイヤルオーク号(74-gun Royal Oak)とボイン号(70-gun Boyne)から攻撃を受け、ファンタスク号は62人の兵士が戦死または負傷。
マルチニーク島

マルチニーク 1947 発行
戦闘後、デェスタイン提督はグレナダ属領(Dependency)のカリアク島(Carriacou & Petite Martinique)とグレナディーン諸島最南端の方にあるセントビンセント・グレナディーン領の島のユニオン島(Union Island)の降伏を確保するために、戦列艦2隻とフリゲート艦3隻からなるサフレン艦隊を派遣しました。

アメリカ独立戦争中盤のグレナダの海戦後にデェスタイン提督艦隊はアメリカ合衆国南東部でサウスカロライナ州とジョージア州の州境を流れるサバンナ川(Savannah River, 484km)の河口を封鎖し、サバンナ包囲戦(Siege of Savannah, 1779/9/16-10/18:第二次サバンナの戦い)を支援するフランス軍の上陸を助けるため、イギリス艦隊を阻止するようにサフレン大佐に命じました。

・サバンナ川の海戦
  (Battle of Savannah, 1779/9/7)
  戦場:ジョージア州サバンナ川
  (サバンナ川流域:サウスカロライナ州とジョージア州:Savannah River, 563km)
サフレン大佐は64門戦列艦アルテシアン号とプロヴァンス号(Provence, 64gn ship of the line 1763)を直卒、フリゲート艦のフォルトゥネ号(frigates Fortunee)、ブランシュ号(Blanche)、チメール号(Chimere)は川に向かって航海して、イギリス軍は数隻の船、特に英ローズ号(HMS Rose, 20gn 1757, 1779/9/19自沈)を自沈させました。実は、英軍アーチボルド・キャンベル中佐(Lieutenant colonel Sir Archibald Campbell KB,1739-1791)遠征隊がサバンナ市街を占領していたので、ローズ号などを水路の狭い部分で自沈させて事実上それを封鎖。その結果、フランス艦隊はアメリカの攻撃を支援することができず、サバンナ市は戦争が終わるまでイギリスの手にとどまりました。
サバンナ川の艦隊 艦隊 司令官 サフレン乗艦
・フランス 戦列艦2隻
フリゲート艦3隻
サフレン大佐 アルテシアン号
・イギリス ローズ号など数隻 キャンベル中佐
参考HP:〜
ロード島&ナラガンセット湾の場所地図

帰国したサフレン大佐は、1780/3/1にルイ16世(Louis XVI)から戦勝の恩賞で、フランスにて1795年まで使われていた通貨の金貨1,500リーブル(French livre)を与えられました。
1780/4月にサフレン少将は、フランス74門戦列艦マルセイユ号座乗のリオン少将艦隊の74門戦列艦ゼール号の艦長になりました。1780/5/19にマルセイユ号とゼール号の2隻艦隊が出帆してポルトガル沿岸をパトロールしました。1780/6/17にスペインのカディスボーセット少将艦隊に加わりました。その後、スペインのコルドヴァ提督の下で、フランスとスペインの合同艦隊に加わり、商船63隻からなるイギリス大護送船団と遭遇。仏ス艦隊はイギリス護送船団を攻撃(英護送船団との遭遇戦)して勝利するも、イギリスの護衛艦隊3隻と商船数隻は、 フランス74門戦列艦

    Le vaisseau de 74 canons
セント・ヴィンセント 1989 発行
大きな被害がでる前に逃亡しました。サフレン艦隊は追跡を試みるも、銅板張りのイギリス軍艦は決定的な速さで逃亡したので、追跡を断念しました。戦闘後にサフレン少将は海軍長官サルティーヌ伯爵に手紙を送り、フランス海軍が自国の船を銅で覆うことを提唱しました。

▼第5章:インド洋作戦の記
  (Campaign in the Indian Ocean)
・第10節:英ヒューズ提督との四大海戦
1782/2/17 サドラスの海戦 エロース号 インド東海岸マドラスの南沖
・1782/4/12 プロヴィディーンの海戦 アヤックス号 セイロン島東海岸トリンコマリー付近沖
・1782/7/06 ネガパタンの海戦 エロース号 カッダロール沖ベンガル湾
・1782/9/03 トリンコマリの海戦 引分 エロース号 セイロン島北東部トリンコマリー港近く沖
1783/6/20 カッダロールの海戦 クレオパトラ号 ベンガル湾カッダロールの近く沖など。
※カッダロールの海戦でサフレン提督は15隻で、ヒューズ提督の18隻と対決して、イギリス艦隊を
 カッダロール包囲中のイギリス陸軍を極めて危険な状態に置き去りにしたまま、マドラスへと追い返す。

第四次英蘭戦争の勃発とともに、イギリスに対してフランスとオランダ共和国は同盟を結んで共に戦うことを約しました。オランダはイギリスがオランダ領ケープ植民地占領の遠征軍を派遣することに対して、フランスに支援を求めました。フランスは戦列艦5隻を主力とするサフレン艦隊を提供したので、1781/3/22にサフレン艦隊はブレストを出帆、喜望峰からインド洋のイル・デ・フランス島(現モーリシャス)へ向かいました。途中、1781/4/16にイギリスの
サフレン提督 インド洋方面航海地図
ジョンストン提督艦隊がケープ・ヴェルデのプラヤ港に集結・停泊しているのを発見。 サフレン提督は直ちに攻撃命令を発し、1781/4/16にポルト・プラヤの海戦が勃発。戦果は互角なるも、ジョンストン艦隊を分散させて混乱させて戦略的にはフランスの勝利となり、サフレン艦隊はケープタウンに急行し、1781/6/21にサイモンズベイに到着。ポンディシェリー連隊が上陸して陸と海の攻撃からケープ植民地を強化。艦隊は船を修理し、病人は陸上の病院で治療を施しました。ジョンストン艦隊は7/21朝に到着し、ケープ湾を哨戒警備するフリゲート艦2隻を残してサルダニア湾に向けて出帆。サフレン艦隊4隻は7/24に出帆して英フリゲート艦を追い払ってケープ周辺を巡回しました。ジョンストン提督がケープ植民地への攻撃を断念したことが解って艦隊に補給し、またオランダ側に警告を与えて、イル・デ・フランス島へ航海し、1781/7/28に到着。そこはインド洋でのフランスの作戦基地として選ばれ、侯爵カステルナウ総督の総指揮下に置かれていました。1781/12/7に伯爵ドルベス少将艦隊27隻の、戦列艦11隻・フリゲート艦3隻・コルベット艦3隻でサフレン艦隊を編成して、トリンコマリー攻撃のためセイロン島へと出帆。途中でドルベス提督はトリンコマリー攻撃をマドラス攻撃に変更するも、健康状態が悪化してサフレン提督に総指揮を委任しました。ドルベス提督は、1782/2/9に南インド東側タミル・ナードゥ州のコロマンデル海岸沿いのベンガル湾に面する州都マドラス(Madra, 現チェンナイ:Chennai)沖で80門戦列艦オリエント号(Orient)にて亡くなり、その数日後に英ヒューズ提督との最初の戦いサドラスの海戦が勃発しました。フランスのサフレン提督とイギリスのヒューズ提督との戦いは、アメリカ独立戦争(1775-1783)当時にインド東西の海上で四大海戦やその他数々の海戦を戦いました。ヒューズ提督はこれらの戦いで1隻の船も失いませんでしたが、何の戦果もあげることが出来ませんでした。一方、サフレン提督は先例がない活力で戦うも、艦隊の艦長たちの消極的な戦意で、はっきりしている勝利を得ることはできなくも、セイロン島(現スリランカ)トリンコマリ停泊地をイギリスから奪取してその確保を成功させました。

フランスと同盟してイギリスに抵抗していた、南インドのカルナータカ地方マイソール王国支配者のマハラジャ・ハイダ・アリーは、このサフレン艦隊の活躍を聞いて勇躍して1782/7/26にマイソール王国の都シュリーランガパトナ(Srirangapatna)にサフレン提督を招いて謁見しました。ハイダ・アリの没(1782)後は息子のティプー・スルタン(Tipu Sultan, 1749c-在位1782-1799) インドの地図

インド 1957/4/1 発行
が戦いを続け、イギリスの攻勢は強まるもヒューズ艦隊をひきつけることができました。サフレン提督はトリンコマリの海戦(1782/9/3)後、スマトラマレーの港で艦隊の修理をしていたので、北東モンスーン時期にはアジアの港から動けませんでした。
1783年の北西モンスーンでインド洋へ戻りました。サフレン提督は、本来の目的はヒューズ艦隊を無力化することにあるとして、イル・デ・フランス島へは戻らずにカステルナウ総督軍がイル・デ・フランス島からインド東海岸タミル・ナードゥ州ポンディシェリーへ赴任するのを護送するために南インドに留まりました。カステルナウ総督軍が上陸するも、その後の作戦遂行は緩慢で、サフレン提督の行動は大きく妨げられる結果となりました。そうした状況下、ヒューズ艦隊との最後の戦いとなったカッダロールの海戦(1783/4/20)は、15隻の仏艦隊で英艦隊18隻に立ち向かったもので、イギリスの提督をして、カッダロールを包囲中の陸軍を極めて危険な状態に置き去りにしたままマドラスに引き上げさせました。そこへヨーロッパで講和が成ったという知らせが到着して戦いは終了し、サフレン提督はフランスへ帰国することになりました。
参考HP:〜
ハイダ・アリに謁見するサフレン提督の図

▼第6章:帰国の記
  (Post-War)
サフレン艦隊は1783/8/8にトリンコマリーに帰港しました。そのほとんどは10月までそこに停泊しました。サフレン提督は1783/9/15にエローズ号とクレオパトラ号でポンディシェリに航海して9/17に到着し、そこで海軍中将(Vice Admiral、仏Lieutenant general des Armees navales)への昇進を知りました。9/26にトリンコマリーに向けて出帆し、9/29に到着。サフレン艦隊は1783/10/6にヨーロッパに向けて出帆しました。途中、サフレン艦隊は補給のため喜望峰に寄港。
ルイ16世に謁見

ジャージー 1989 発行
帰国するヒューズ提督艦隊が到着したとき、風向きが悪い不利な風で数日間そこに留まっていました。その嵐で英64門3等戦列艦エクセター号(HMS Exeter)が座礁したので、イギリスとフランスの両方の艦隊からボートでかけつけて救助しました。

・第11節:突然の死 (Legacy)
サフレン艦隊は1784/3/26にトゥーロンに到着。サフレン提督はアメリカ独立革命戦争中にフランス艦隊の指揮をして、その卓越した艦隊指揮振りが、18世紀で最高の海軍指揮官であると評価されました。そして、サフレン提督はパリのヴェルサイユ宮殿に召喚され、ルイ16世カストリー海軍大臣に迎えられ、大いに称賛され、サフレン提督のためにだけ用意された「第4副提督」(fourth position Vice Admiral)の終身地位が与えられました。

フランスに不利な英仏貿易協定イーデン条約(Eden Agreement, 1786)の締結に伴い、1787/10月にはフランスとイギリスの間で再び緊張が高まり、新たな紛争が迫っているのではないかと危惧されました。予防措置として、ルイ16世はサフレン提督が指揮するブレスト艦隊の準備と艦長の任命を命じました。サフレン提督がブレスト港への旅の準備をしているとき、急に健康を害して、1788/12/8に突然パリで亡くなり、それは卒中だといわれています。肥満体だったので、もっともに思われるも、ミルポワ王子(Prince de Mirepoix)との決闘によるという説も有力です。 決闘の図

スチーブンソン没後100年記念
クック諸島 1994 発行
王子の非行で海軍への復帰の助言をしなかったので、王子に決闘の名目で殺されたとする説も伝えられています。(完)

<サフレン提督の生涯年表>
 記  事
1729 仏プロヴァンスのサン・カナ城で誕生
1743 14 海軍の貴族士官候補生
1746 17 カナダ・ケープブレトンで難破・遭難
1747 18 イギリスの捕虜となる。休戦で釈放
1748 19 地中海方面の艦隊任務
1756 27 7年戦争勃発し、ミノルカ島の海戦で勝利
1757 28 ラゴスの海戦でイギリスの捕虜となる、2回目?1759?
1763 34 7年戦争終結。バーバーリイ海賊討伐の司令官(コマンダー)になる
1767 38 フランス護送船団の司令官となる
1767-71年までバーバーリイ海賊討伐
1771 42 大西洋・カリブ海方面のフランス・スペイン連合艦隊司令官となる
1775 46 アメリカ独立戦争勃発。フランス護送船団の司令官となる
1778 49 インドのカルカッタ付近Chandarnagoとマヘとポンディチェリがイギリスの手に落ちる
1780 51 ポンディシェリー(Pondichery)はハイダル・アリーの手に落ちる
フランス・スペイン連合艦隊司令官として、
大西洋でイギリス護送船団を捕獲
1781 52 カッダロールがイギリスの手に落ちる
ベルデ岬諸島のプラヤ港沖の海戦
1782 53 イギリス・ヒュー提督との海戦が勃発(四大海戦
セイロン島オランダのトリンコマリがイギリスの手に落ちる
1783 54 カッダロールの海戦、イギリス艦隊をマドラスへ撃退
1788 59 病死説と決闘説とが有。

・サフレン提督の座乗戦列艦(ship of the line Warship)など:〜
Date 艦名 Ship of the Line, etc Battle Memo
1744 ソリデ号 Solide 64gn ツーロンの海戦 戦列艦、士官候補生
1745 ポーリン号 Frigate Pauline 西インド諸島遠征 フリゲート艦
1746 トライデント号 Trident 60gn ダンヴィユ公遠征隊 戦列艦戦列艦
1747 モナーク号 Monarch 74gn フィニステレ岬の海戦 少尉
1748 ガレー船 rowin sail ship Galley バーバリー海賊討伐 マルタ騎士団
1754 ガレー船 rowin sail ship Galley バーバリー海賊討伐 マルタ騎士団
1756 オルフェ号 Orphee 64gn ミノルカ島の海戦 中尉
1758 オセアン号 Ocean 80gn カルタヘナの海戦 1759英軍焼却
1759 オセアン号 Ocean 80gn ラゴスの海戦 アルマドラ湾で座礁
1763 カメレオン号 Xebec Cameleon 20gn バーバリー海賊討伐 艦長、ジーベック船
1765 シング号 Xebec Singe 20gn ララシュ遠征 艦長、ジーベック船
1767 ユニオン号 Frigate Union 64gn ブレスト軍港 大尉、艦長
1768 ガレー船 Galley マルタ島 コマンダー
1772 ミニョン号 Frigate Mignonne 26gn ツーロン、地中海哨戒 少佐、艦長
1776 アルクメーネ号 Frigate Alcmene 26gn 訓練航海 中佐、艦長
1778 ファンタスク号 Fantasque 64gn ナラガンセット湾の海戦 中佐、艦長
1779 ファンタスク号 Fantasque 64gn グレナダの海戦 大佐、艦長
1779 アルテシアン号 Areesien 64gn サバンナ川河口封鎖 サバンナ包囲戦支援
1780 ゼール号 Zele 74gn ポルトガル沖パトロール 少将
1781 エロース号 Heros 74gn ポルト・プラヤの海戦 中将、司令官
1782 アヤックス号※ Ajax 64gn プロヴィディーンの海戦 中将、司令官
1783 クレオパトラ号 Cleopatre, 32gn カッダロールの海戦 中将、フリゲート艦
1788 中将、没

モナーク号は英に捕獲されて(HMS Monarch)となる。
アヤックス号へはエロース号の策具装置(Rigging)損傷後に移乗。

・エロース号の装備:〜
  Heros
、1778
船 型 フランス3等戦列艦
(74-gun Third-rate ship of the line)
フランス戦列艦、1782
帆 柱 3本
全 長 51m
全 幅 13m
喫 水 6.4m
重 量 1500屯
進 水 1778年、ツーロン(Toulon)
最 後 1793年、イギリスが補獲後、炎上
武 装 36-pdr砲28門、下甲板(Lower battery)
18-pdr砲30門、上甲板(Upper battery)
08-pdr砲16門、艦楼甲板(Castles)
          合計:砲74門、2層砲列甲板

<サフレン提督の海戦の従軍戦歴> 勝者 メモ
オーストリア継承戦争の海戦(Sea Battle of the Austrian Succession, 1740-1748)
(1) 1744/2/22 ツーロンの海戦 Battle of Toulon エロース号
(2) 1747/5/14 フィニステレ岬の海戦 Battle of Cape Finisterre モナーク号
七年戦争(Seven Years' War, 1756-1763)
(3) 1756/5/20 ミノルカ島の海戦 Battle of Minorca オルフェ号
(4) 1758/2/28 カルタヘナの海戦 Battle of Cartagena オルフェ号
(5) 1759/8/18・19 ラゴスの海戦 Battle of Lagos オセアン号、捕虜
1759/11/20 キブロン湾の海戦 Battle of Quiberon Bay -----
1756/6/29 ミノルカ包囲戦 Siege of Minorca -----
1765/6 ララシュ遠征 Larache expedition シング号
アメリカ独立戦争支援(American Revolutionary War, 1775-1783)
(6) 1779/7/6 グレナダの海戦 Battle of Grenada ファンタスク号
1778/6/17 リザード岬沖の海戦 Bttle of Cape Lizard -----
1778/8/5 ナラガンセット湾 Battle of Narragansett Bay ファンタスク号
1779/7/4 グレナダ占領 Capture of Grenada -----
1780/8/9 英護送船団との遭遇戦 Action of 9 August 1780 ゼール号
インド洋作戦
(7) 1781/4/16 ポルト・プラヤの海戦 Battle of Porto Praya エロース号
(8) 1782/2/17 サドラスの海戦 Battle of Sadras エロース号
(9) 1782/4/12 プロヴィディーンの海戦 Battle of Providien アヤックス号
(10) 1782/7/6 ネガパタンの海戦 Battle of Negapatam エロース号
(11) 1782/9/3 トリンコマリの海戦 引分 Battle of Trincomalee エロース号
(12) 1783/6/20 カッダロールの海戦 Battle of Cuddalore クレオパトラ号
など


・ララシュ遠征
 (Larache expedition, 1765/6)フランスの敗北
 モロッコのタンジェ=テトゥアン=アル・ホセイマ地方の都市ララシュ
 (Tanger-Tetouan-Al Hoceima, Morocco)
フランスのベスネ提督艦隊は戦列艦ユティル号(52-gun ship Utile)と、フリゲート艦はエロイン号(30gn Heroine)艦長グラス大尉、ジーベック艦シング号艦長サフレン中尉、小型ガレーのガリオット艦(Galiot, small galley)など、16隻で構成されて、1765/6/2〜6/11の間にモロッコの首都ラバト(Rabat)とブーレグレグ川(Bou Regreg river, 240km)を挟んで
ジーベック船

スペイン 1964 発行
北に隣接するサレ(Sale, Morocco)への砲撃が成功した後、1765/6/26にララシュ沖に到着。
ララシュの街へは27日と28日に砲撃し、都市は壊滅し住民は避難しました。ボーリガード大尉(Captain Latouche Beauregard)のフランス艦隊は小型ボート16隻で、数隻のモロッコ船に火をつけようとして、リクサ川(Loukkos River, 100km)を遡上航行。この部隊はモロッコ人に囲まれて、7隻の小型ボートが捕獲され、9隻は艦隊に戻りました。フランス海兵200人が戦死、捕虜48人が奴隷にされました。艦隊は捕虜を取り戻すことも、モロッコ軍に報復を与えることもできませんでした。これは七年戦争後、18世紀末のフランス艦隊の復フ活前のランス海軍にとっての最悪の結末になりました。 小型ガレーのガリオット艦

ブルガリア 1980 発行
仏英の戦艦隊 主力 その他 司令官 サフレン乗艦
・フランス 戦列艦1隻 フリゲート艦13隻 ベスネ提督 シング号
フランスの攻撃艦隊 隻数 ---
・戦列艦 1隻 ユティル号、ベスネ提督座乗
・フリゲート艦 13隻 エロイン号グラス艦長、リコルネ号ブルニョン艦長
・ジーベック艦 1隻 シング号、サフレン艦長
・ガリオット艦 1隻 (Galliots)。
参考HP:〜
 ・タンジェ=テトゥアン=アル・ホセイマ地方の場所地図

・マルセイユ号
 (74gun ship Marseillais)
 別名:フランス戦列艦ヴァンジュール・ドゥ・ププル号
   (French ship 74-gun Vengeur du Peuple)
   (仏:Vengeur du Peuple、英:"Avenger of the People"、日:国民の復讐者)
マルセイユ号はフランスの74門戦列艦(Ship of the Line)で、マルセイユ商工会議所からの戦列艦の贈り物(ドン・デ・ベッセル:Don des vaisseaux)としての寄付で資金提供され、1762年に建造されました。マルセイユ号はデェスタイン提督艦隊でのアメリカ独立戦争の海軍作戦に参加し、1778/8/11に英50門四等戦列艦プレストン号(50gn fourth rate HMS Preston, 1757)と対峙して決着がつかかず、1781/9/5にはチェサピーク湾の戦いに参加して英64門戦列艦イントレピッド号(64gn third rate HMS Intrepid, 1770)と戦い、1782/4/12のセインツの海戦(1782/4/12)ではヴィル・ド・パリ号と共に戦い、セントキッツ島の戦い(Battle of Saint Kitts, 1782/1/26)やセントルシアの海戦(1778/12/15)にも参加しました。
フランス革命後、マルセイユ号はヴァンジュール・ドゥ・ププル号と改名され、栄光の6月1日海戦に参加しました。そこで、ヴァンジュール・ドゥ・ププル号は英ブランズウィック号(74gn third rate HMS Brunswick, 1790)との激しい戦い後、無防備となってフランス船に救助された後に降伏しました。数時間後、イギリス船が救助活動を開始したとき、ヴァンジュール・ド・ププル号は沈没、その乗組員はほぼ半分になっていました。それが伝説になって民話として生き続け、海底二万里の作者ジュール・ヴェルヌ(Jules Gabriel Verne 1828-1905)による数多くの表現と創作の小説に影響を与えました。 ジュール・ヴェルヌ

フランス 1955 発行


・シャンボール城
 (シャトー・デ・シャンボール、Chateau de Chambord)
シャンボール城は、フランス北中部にあるサントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏ロワール=エ=シェール県のシャンボール(Chambord, Loir-et-Cher, Centre-Val de Loire, France)にある城。ロワール渓谷に点在する城のうち最大の広さを持つ。フランス王フランソワ1世(Francois Ier、1494-1547)のために建てられた。
シャンボール城

フランス 1952 発行


・仏ス英の艦隊司令官名など:〜
<フランスの司令官名>
・海軍元帥カストリー海軍大臣(在任1739-1789)
 シャルル・ウジェーヌ・ガブリエル・デ・ラ・クロワ・デ・カストリー
 (Marshal Charles Eugene Gabriel de La Croix de Castries, 1727-1801)
・侯爵カステルナウ総督
デェスタイン提督

マダガスカル 1975 発行
  シャルル・ジョセフ・パティシエ、マルキス・デ・ブッシー=カステルナウ
 (Governor-general Charles Joseph Patissier, Marquis de Bussy-Castelnau, 1718-1785)
  フランス植民地ポンディシェリ総督
 (Governor General of French colony of Pondicherry, 1783-1785)
 ・第二次マイソール戦争(1780-1784)1782年ポンディシェリへ、など従軍
・公爵ショワズール将軍
  陸軍軍中将エティエンヌ=フランソワ・デ・ショワズール公爵
 (Lieutenant General Etienne Francois, Marquis de Stainville, Duc de Choiseul, 1693-1785
 ・ルアーブル襲撃(1759/7/5)など従軍
・侯爵ガリソニエール提督
  海軍少将ローランド=ミシェル・バリン・デ・ラ・ガリソニエール、マルキス・デ・ラ・ガリソニエール
 (Rear admiral Roland-Michel Barrin de La Galissoniere, Marquis de La Galissoniere, 1693-1756
 ・ミノルカ島の海戦(1756/5/20)など従軍
グラス提督
  海軍中将フランシス・ジョセフ・ポール・デ・グラス侯爵
 (Vice-admiral Francois Joseph Paul de Grasse, 1722/9/13-1788/1/11)
・グッシェン提督
  海軍中将リュック・アーベイン・デュ・ブエクスック、グッシェン伯爵
 (Vice Amiral Luc Urbain du Bouexic, comte de Guichen, 1712-1790)
 ・第1次・2次ウェサン島の海戦(1778 & 1781)従軍
 ・マルティニーク島の海戦(1780)など従軍
 (ヌーベルフランス(Governor general of New France:Ile-Royale)総督、1747-1749)
・コンフラン伯爵
  海軍少将ユベール・デ・ブリエンヌ、コンテ・デ・コンフラン
 (Contre amiral Pierre-Antoine de Raymondis d'Eoux, 1690-1777)
 ・ガリソニエール提督の命、オルフェ号ミノルカ島の海戦(1756/5/20)
 ・ギブロン湾の海戦(1759/11/20)など従軍
・サブラン提督クルー伯爵
  海軍中将ジャン=フランソワ・デ・サブラン、コンテ・デ・ラ・クルー
 (Vice Admiral Jean-Francois de Sabran, comte de La Clue, 1696-1764/10/4)
 ・ラゴスの海戦(1759/8/18)など従軍
・海軍長官サルティーヌ(在任1774-1780)ダルビー伯爵
  アントワーヌ・レイモンド・ジャン・ガルバート・ガブリエル・デ・サルティーヌ、コンテ・ダルビー
 (Antoine Raymond Jean Gualbert Gabriel de Sartine, comte d'Alby, 1729-1801)
 ・イギリス護送船団遭遇戦の後でサフレン提督から銅板張り進言される
 ・1778年フランスの参戦で仏財政悪化して解任(1780/10/4)、カストリー提督となる
・ジョンキエール提督
 海軍中将ジャック=ピエール・デ・タファネル・デ・ラ・ジョンキエール、マーキス・デ・ラ・ジョンキエール
 (Leutenant general Jacques-Pierre de Taffanel de la Jonquiere, Marquis de la Jonquiere, 1685-1752)
  ヌーベルフランス総督(1746-1762)
 ・第一次フィニステレ岬の海戦(1747/5/14、英勝利)など従軍
・ダルザック・デ・テルネイ提督
  海軍少将シャルル・アンリ・ルイ・ダルサック、シュヴァリエ・デ・テルネイ
 (Rear Admiral Charles-Henri-Louis d'Arsac, chevalier de Ternay, 1723-1780)
 ・アメリカ特別遠征隊(1780)を指揮して仏ブレスト港を出帆(1780/5)、など従軍
・デュケーヌ提督
  海軍中将ピエール・アントワーヌ・デ・レイモンディス・デュケーヌ
 (Vice amiral Pierre-Antoine de Raymondis d'Eoux, 1706-1792)
 ・カルタヘナの海戦(1758/2/28)など従軍
・デュ・ボア・デ・ラ・モット伯爵
 海軍中将エマニュエル・オーギュスト・ド・カヒデック、コンテ・デュ・ボア・デ・ラ・モット
 (Emmanuel-Auguste de Cahideuc, comte du Bois de La Motte, 1683-1764)
 ・ケープレイ岬の海戦(Battle of Cape Rei (Action of 8 June) 1755/6/8)
 ・ルイズバーグ遠征(1757)など従軍
デェスタイン伯爵
  海軍大将ジャン・バプティスト・シャルル・アンリ・ヘクター、コンテ・デェスタイン
 (Admiral Jean Baptiste Charles Henri Hector, comte d'Estaing, 1729-1794)
 (アジア・アメリカ方面海軍中将:Vice-Amiral es Mers d'Asie et d'Amerique, 1777-1792)
・ドリュクール提督
  海軍提督オーギュスタン・デ・ボシェンリー・デ・ドリュクール
 (Augustin de Boschenry de Drucour, 1703-1762)
 (ヌーベルフランス総督、1754-1758)
 ・ルイスバーグの海戦(1758/6/8-7/26)のルイスバーグ総司令官など従軍
・ドルヴィリュー伯爵
  ルイ・ジロー提督ドルヴィリュー伯爵
 (Vice Admiral Louis Guillouet, comte d'Orvilliers, 1710-1792)
 ・第1次ウェサン島の海戦(1778/7/28)など従軍
・ドルベス提督
  海軍少将ジャン=バプティスト・バルセレミー・トーマス、ドルベス伯爵
 (Rear Admiral Jean-Baptiste Barthelemy Thomas, comte d'Orves, 1727-1782/2/9)
 ・インド派遣艦隊総司令官でインド洋作戦のためモーリシャスを
  1781/12/7にトリンコマリーへと出帆後、マドラス(現チェンナイ)沖没
・艦長ブーゲンビル伯爵
 ルイ=アントワーヌ、コンテ・ドゥ・ブーゲンヴィル
 (Louis-Antoine, comte de Bougainville, 1729-1801)
 (伯爵授与はナポレオン:Comte de Bougainville, Napoleon, 1808)
・ブイエ侯爵フランソワ・クロード・アムル・デュ・シャリオール
 (Francois Claude Amour du Chariol, marquis de Bouille, 1739-1800)
 ・マルチニーク島総督(1777-1783)で英領ドミニカ島占領(1778/9/7)
・ブリュイエール提督
  海軍中将クロード=エリゼ・デ・コート・デ・ラ・ブリュイエール
 (Vice Admiral Claude-Elisee de Court de La Bruyere, 1666-1752)
 ・ツーロンの海戦(1744/2/22、仏勝利)など従軍
・ブルニョン提督
  海軍中将ピエール・クロード・ホーデノウ・デ・ブルニョン
 (Vice Admiral Pierre-Claude Haudeneau de Breugnon, 1717-1792)
 ・ララッシュ遠征(1765/6, 32-gun frigate Licorne)リコルネ号
 ・グレナダの海戦(1779/7/6)トナン号セインツの海戦(1782/4/9)など従軍
・ベスネ提督
  海軍中将ルイ・シャルル・デュ・シャフォール・デ・ベスネ
 (Vice Admiral Louis Charles du Chaffault de Besne, 1708-1794)
 ・ララッシュ遠征(1765/6)など従軍
・男爵マック・ネマラ海軍中将
 (Baron Vice Admiral Jean-Baptiste Mac Nemara, 1690-1756)
・ボーセット提督
  海軍中将アントワーヌ・ヒラリオン・デ・ボーセット
 (Lieutenant general Antoine Hilarion de Beausset, 1725-1795)
 ・イギリス護送船団との遭遇戦(1780/8/9、仏勝利)など従軍
・メンヌヴィル提督デュケーヌ侯爵
  海軍少将ミシェル=アンジュ・デュケーヌ・デ・メンヌヴィル、マルキス・デュケーヌ
 (Rear admiral Michel-Ange Du Quesne de Menneville, Marquis Du Quesne, 1700-1778
 (ヌーベルフランス総督、1752-1755)
ラ・ファイエット将軍
 ラ・ファイエット侯爵マリー=ジョセフ・ポール・イヴ・ロック・ギルバート・デュ・モティエ
 (Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette)
・リオン伯爵
  海軍少将フランソワ・ヘクター・ダルベール、コンテ・デ・リオン
 (Contre-amiral Francois Hector d'Albert, comte de Rions, 1728-1802/10/2)
 ・グレナダの海戦(1779/7/6)サジテア号プルトン号チェサピーク湾の海戦(1781/9/5)
 ・セインツの海戦(1782/4/9)セント・キッツの海戦(1779/7/6)など従軍など
・陸軍元帥リシュリュー公爵、初代はリシュリュー枢機卿
  第3代リシュリュー公爵ルイ・フランソワ・アルマン・デ・ヴィニュロー・デュ・プレシ
 (Louis Francois Armand de Vignerot du Plessis, duc de Richelieu, 1696-1788)
 ・ミノルカ包囲戦(1756/4-6/29、仏勝利)など従軍
・ジャン・オノレ提督
 ジャン・オノレ少将トロゴフ・デ・ケルレッシー伯爵
 (Admiral Jean-Honore, Comte de Trogoff de Kerlessy, 1751-1794)
 ・ツーロンの包囲戦(1793/12/18、仏王党派反乱、仏勝利)など従軍
・レステンデュエール侯爵
  海軍中将アンリ・フランソワ・デ・エルビエ、マルキス・デ・レステンデュエール
 (Vice Admiral Henri-Francois des Herbiers, Marquis de L'Estenduere, 1682-1750)
 ・第二次フィニステレ岬の海戦(1747/10/25、英勝利)など従軍
ロシャンポー将軍
 ロシャンポー伯爵ジャン・バプチスト・ドナチエン・ド・ヴィメール
 (Jean-Baptiste Donatien de Vimeur, comte de Rochambeau, 1725-1807)
サフレン提督
 サントロペ伯爵ピエール・ドゥ・サフレン海軍中将、バイリ・デ・サフレン(マルタ騎士団称号)
 (Vice Admiral Pierre Andre de Suffren, comte de Saint Tropez, bailli de Suffren)。

<スペインの司令官名>
・ガルベス提督
 海軍元帥ベルナルド・デ・ガルベス
 (Captain General (Marshal) Bernardo de Galvez、1746-1786)
 ・ペンサコーラの戦い(Battle of Pensacola、1781/3/9-5/8、ス勝利)など従軍
・コルドヴァ提督
 海軍大将ルイス・デ・コルドヴァ・イ・コルドヴァ
 (Admiral Luis de Cordova y Cordova, 1706-1796)
 ・イギリス護送船団との遭遇戦(1780/8/9、仏勝利)など従軍
・ナバロ提督
 フアン・ホセ・ナバロ、初代ヴィクトリア侯爵
 (Juan Jose Navarro, 1st Marquess of Victoria, 1687-1772)
 ・ツーロンの海戦(1744/2/22、仏勝利)など従軍
・ランガラ提督
 海軍大将フアン・フランシスコ・デ・ランガラ・イ・ウハルテ
 (Captain General Juan Francisco de Langara y Uharte、1736-1806)
 ・英西戦争(Anglo-Spanish War, 1779-83)
 ・ツーロンの包囲戦(1793/12/18、仏王党派反乱、仏勝利)など従軍。

<イギリスの司令官名>
アンソン提督
 海軍大将ジョージ・アンソン、初代アンソン男爵
 (Admiral George Anson, 1st Baron Anson, 1697-1762)
  枢密官(PC)、英海軍々人(RN)、王立学士院(FRS
・提督アフレック卿
 海軍少将エドマンド・アフレック卿、初代準男爵
 (Rear Admiral Sir Edmund Affleck, 1st Baronet, 1725-1788)
 ・セント・キッツの海戦(1782/1/26)従軍
バイロン艦長

ギルバート諸島 1977 発行
・アーバスノット提督
 海軍元帥マリオット・アーバスノット(Admiral of the White, 1780/9/26-1793)
 (Admiral of the Blue(1793/2/1-) Mariot Arbuthnot , 1711-1794)
 ・ラゴスの海戦(1759/8/18)など従軍
・アマースト将軍
 陸軍元帥ジェフリー・アマースト、初代アマースト男爵
 (Field Marshal Jeffery Amherst, 1st Baron Amherst, KB, 1717-1797)
 ・第2次ルイスバーグの海戦(1758/6/8)など従軍
・オズボーン提督
 海軍大将ヘンリー・オズボーン
 (Admiral Henry Osborn, 1694-1771)
 ・カルタヘナの海戦(1758/2/28)など従軍
・グレーブス提督
 海軍大将サー・トマス・グレーブス郷
 (Admiral Sir Thomas Graves, 1747-1814)
 ・チェサピーク湾の海戦(1781/9/5)
 ・セイント・キッツの海戦(1782/1/26)
 ・セインツの海戦(1782/4/12)など従軍
・ケッペル提督
 海軍大将オーガスタス・ケッペル、初代ケッペル子爵
 (Admiral Augustus Keppel, 1st Viscount Keppel, PC, 1725-1786)
 ・リザード岬沖の海戦(1778/6/17)・第1次ウェサン島の海戦(1778/7/28)など従軍
・ジョンストン提督
 海軍代将ジョージ・ジョンストン
 (Commodore George Johnstone, 1730-1787)
 ・ポルトプラヤの海戦(1781/4/16)など従軍
・チャールズ・ダグラス海尉
 (Lieutenant Charles Douglas, 1727-1789)
 海軍少将チャールズ・ダグラス、初代カー男爵
 (Rear Admiral Sir Charles Douglas, 1st Baronet of Carr, 1727-1789)
 ・ケベック解放(1776/5月)など従軍
・提督ドレイク郷
 海軍少将サー・フランシス・サミュエル・ドレイク、第1準男爵
 (Rear Admiral Sir Francis Samuel Drake, 1st Baronet, 1729-1789)
 ・セイント・キッツの海戦(1782/1/26)従軍
バイロン提督
 海軍中将ジョン・バイロン(別名:悪天候ジャック:Foul-weather Jack)
 (Vice Admiral John Byron, RN, 1723-1786)
・ハウ提督
 海軍元帥リチャード・ハウ、初代ハウ伯爵
 (Admiral of the Fleet Richard Howe, 1st Earl Howe, KG, 1726-1799)
 ・ケープレイ岬の海戦ギブロン湾の海戦(1759/11/20)、スピッドヘッドの反乱の調停など
・バリントン提督
 海軍少将サミュエル・バリントン
 (Rea Admiral Samuel Barrington, 1729-1800/8/18)
 ・セントルシアの海戦(1778/12/15)など従軍
・パーカー提督
 海軍大将ハイド・パーカー郷
 (Admiral Sir Hyde Parker, 1739-1807)
 ・ドッガー・バンクの海戦(1781)など従軍
・ハーディ提督
 海軍元帥チャールズ・ハーディ卿(ニューヨーク植民地総督, 1755-1757)
 (Admiral of the White Sir Charles Hardy, 1714-1780/5/18)
 ・第2次ルイスバーグの海戦(1758/6/8)など従軍
・ピット首相
 首相(政治家)ウィリアム・ピット、初代チャタム伯爵
 (Admiral William Pitt, 1st Earl of Chatham, PC, FRS, 1708-1778)
 (首相在任:Prime Minister of Great Britain, 1766-1768)
 ・ルイスバーグの海戦(1758/6/8)前にルイスバーグ要塞の攻撃を採決など
・ビング提督
 海軍大将ジョン・ビング
 (Admiral John Byng, 1704-1757)
 ・ミノルカ包囲戦(1756/6/29)など従軍
  1757/3/14にイギリス本土とワイト島を分けるソレント海峡(Solen straitt)にて
  三等戦列艦モナーク号(HMS Monarch 74gn)艦上で処刑された
・ヒューズ提督
 海軍大将エドワード・ヒューズ郷
 (Admiral Sir Edward Hughes RN, c1720-1794)c:頃
 ・サドラスの海戦(1782/2/17)・プロビディーンの海戦(1782/4/12)
 ・ネガバダンの海戦(1782/7/6)・トリンコマリーの海戦(1782/9/3)
 ・カッダロールの海戦(1783/6/20)など従軍
フィリップ提督
 (Admiral Arthur Phillip RN、NSW Governer(NSW総督在位:1788-1792)
 ・ミノルカ島の海戦(1756/5/20)など従軍
・ブレイクニー提督
 海軍中将ウィリアム・ブレイクニー郷、初代ブレイクニー男爵
 (Lieutenant General Sir William Blakeney, 1st Baron Blakeney, KB, 1672-1761)
 ・ミノルカ包囲戦(1756/6/29)など従軍
フッド提督
 海軍大将サミュエル・フッド、初代フッド子爵
 (Admiral Samuel Hood, 1st Viscount Hood, 1724/12/12-1816/1/27)
 ・トゥーロン包囲攻撃戦(1793/12/18)など従軍
・ボスコーエン提督
 青色艦隊海軍大将エドワード・ボスコーエン、枢密官(PC)
 (Admiral of the Blue Edward Boscawen, 1711-1761)
 ・ケープレイ岬の海戦ラゴスの海戦(1759/8/18)など従軍
・ホーク提督
 海軍元帥エドワード・ホーク、初代ホーク男爵、バス勲爵士(KB)
 (Admiral of the Fleet Edward Hawke, 1st Baron Hawke, 1705-1781、枢密官(PC)
 ・第二次フィニステレ岬の海戦(1747/10/25)、キブロンの海戦(1759/11/20)など従軍
・ホータム提督
 海軍代将ウィリアム・ホータム、初代ホータム男爵
 (Comodoro William Hotham, 1st baron Hotham, 1736-1813)
 ・セントルシアの海戦(1778/12/15)など従軍
・マシューズ提督
 海軍大将トーマス・マシューズ
 (Admiral Thomas Mathews, 1676-1751)
 ・パッサロ岬の海戦(1718/8/11)、ツーロンの海戦(1744/2/22)など従軍
・マンロー将軍
 陸軍大将ヘクター・マンロー卿、第8代ノバー・レアード(スコットランド・レアード:Scottish Laird)
 (General Sir Hector Munro, 8th laird of Novar, KB, 1726-1805)
 インド駐在軍総司令官(Commander-in-Chief, India, 1764/7-1765/1)
 ・ネガパタンの海戦(1782/7/6)ネガパタン港占領などに従軍
・モートレイ艦長
 勅任艦長ジョン・モートレイ
 (Post-captain John Moutray, 1722-1785)
 ・イギリス護送船団との遭遇戦(1780/8/9、仏勝利)など従軍。

<参 考>
・ツーロンの海軍美術館にサフレン提督の銅像が有。
参考HP:〜
 ・インドのフランス・イギリスなどの植民地地図

こちらで
・戦歴(1):オーストリア継承戦争
・戦歴(2):七年戦争(海戦)
・戦歴(3):アメリカ独立支援戦争
・戦歴(4):アメリカ独立革命戦争
ファントム・アイランド
切手コレクションの
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る 東海道五十三次
全米50州アメリカ
・世界で1番美しい 蝶々
世界遺産
富士山日本
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   平成 H.15/7/31(2005)、 令和 R.3/12/6(2021)
スタンプ・メイツ
Copyright(C):StampMates
無断転載禁止