France

国連 1980 発行
切手で綴る サフレン提督の従軍戦歴(3)
アメリカ独立戦争の支援
1775-1783
カリブ海からインド洋へ
大航海物語
フランス編

ORDINE DI MALTA
サフレン提督

1788 サフレン提督没後200年記念 1988
マルタ騎士団 1989 発行
St. Vincent
フランス海軍フリゲート艦
Le vaisseau de 74 canons


1789 フランス革命200年記念 1989
セント・ヴィンセント 1989 発行

SULTANATE of OMAN
インド洋の地図

アフリカ・アラビア・インドの地図
オマーン 1981 発行

ANGUILLA
帆船の海戦図

Battle of Saintes, 1782
アンギラ 1971 発行

海軍中将ピエール・アンドレ・ド・サフレン・ド・サン・トロペ伯爵
 Vice Admiral Comte Pierre Andre de Suffren de Saint Tropez, bailli de Suffren, 1729〜1788
サフレン提督従軍戦歴>(3)

アメリカ独立戦争(1775-1783) 勝者 メモ 戦場
(6) 1779/7/6 グレナダの海戦 ファンタスク号 カリブ海グレナダ島沖
1778/6/17 リザード岬沖の海戦 仏偵察艦遭遇戦 大西洋
1779/7/4 グレナダ占領 グレナダ島占領 グレナダ島
1780/8/9 英護送船団との遭遇戦 ゼール号 ポルトガル南部沖
インド洋作戦
(7) 1781/4/16 ポルト・プラヤの海戦 エロース号 カーボヴェルデ
(8) 1782/2/17 サドラスの海戦 エロース号 インド東海岸沖
(9) 1782/4/12 プロヴィディーンの海戦 アヤックス号 セイロン島東海岸沖
(10) 1782/7/6 ネガパタンの海戦 エロース号 ベンガル湾
(11) 1782/9/3 トリンコマリの海戦 引分 エロース号 セイロン島北東部沖
(12) 1783/6/20 カッダロールの海戦 クレオパトラ号 ベンガル湾
1767-1799 マイソール戦争 マイソール王国 インド南部、4度の戦争
1780-1784 第二次マイソール戦争 引分 マイソール王国 南インド
1783/6/7-7/25 カッダロールの包囲戦 引分 カッダロール砦包囲 インド南部
1783/9/3 休戦条約:パリ講和条約 Treaty of Paris
1778 フランスの参戦 アメリカ独立戦争
1778/8/29 ロードアイランドの戦い 引分 ナラガンセット湾 ロードアイランド州ロード島
1782/1/26 フリゲート湾の海戦 セントキッツ島フリゲート湾
1782/4/12 セインツの海戦 ドミニカ島沖
※参考
など。
▼(6)グレナダの海戦
 (Battle of Grenada, 1779/7/6)フランスの勝利
グレナダの海戦は、アメリカ独立戦争中盤の1779/7/6に、西インド諸島のイギリス領グレナダ島海岸沖で、フランス海軍とイギリス海軍の間に行われた海戦で、ジョン・バイロン提督指揮下のイギリス艦隊がグレナダ島沖に到着し、グレナダ占領の伯爵デェスタイン提督指揮下のフランス軍から取り返そうとした。バイロン提督は戦力的に優位にあると思いこみ、グレナダの停泊地を離れたばかりのフランス艦隊に対して、総攻撃を命じた。イギリス艦隊の攻撃が秩序立っていなかったことと、戦力的にフランスが優位だったために、イギリス艦隊は大きな損傷を被った。ただし、艦船の沈没までは免れた。海軍歴史家はこのイギリス艦隊の損失を「1690年のビーチーヘッドの海戦以来の大変な惨事だ」と記した。フランスは勝利したにも拘わらず、それ以上攻撃を続けようとはせず、折角得られた戦術的優位を有効に使えなかった。
英バイロン提督

フォークランド 1935/9/23 発行
仏英の艦隊 主力 司令官 サフレン乗艦
・フランス 戦列艦25隻 デェスタイン提督 ファンタスク号
・イギリス 戦列艦21隻 バイロン提督
フランス艦隊 戦列艦(Ship) フランス戦列艦
ランガードック号、デェスタイン提督

マダガスカル 1975/5/30 発行
・ゼール号 Heros 74
・アニバル号 Annibal 64
ファンタスク号 Fantasque 64 サフレン乗艦
・マニフィーク号 Magnifique 74
・トナン号 Tonnant 80 旗艦、ブルニョン
・プロテクトゥール号 Protecteur 74
・フィーア号 Fier 74
・プロバンス号 Provence 64
・プルデント号 Fendant 74
フリゲート艦 6隻
戦列艦
・フェンダン号 Fendant 74
・アルテジアン号 Artesien 64
・フィーア・ロドリーグ号 Fier-Rodrigue 50
・エクター号 Hector 74
ランガードック号 Languedoc 80 旗艦、デェスタイン乗艦、中衛
・ロビュステ号 Robuste 74
・バイラント号 Vaillant 64
・サジテア号 Sagittaire 50 リオン艦長
・ゲリエール号 Guerrier 74 フランス国旗を掲げる、私掠船

BIOT 1999 発行
フリゲート艦 5隻
戦列艦
・スフィンクス号 Sphinx 64
・ディアデーム号 Diademe 74
・アンフィオン号 Amphion 50
・マルセイエ号 Marseillais 74
・セザール号 Cesar 74 旗艦、後衛
・バンジュール号 Vengeur 64
・レフレチ号 Reflechi 64
・アンニバル号 Annibal 74
フリゲート艦 Frigate 2隻
カッター艦 Cutter 1隻
フリュイ艦 Fruit 1隻
スクーナー艦 Schooner 1隻
仏英艦隊 前衛 中衛 後衛 その他
フランス 戦列艦8隻
フリゲート艦6隻
戦列艦9隻
フリゲート艦5隻
戦列艦8隻
フリゲート艦2隻
14門カッター艦、14門フリュイ艦
スクーナー艦
イギリス 戦列艦7隻 戦列艦8隻 戦列艦7隻
イギリス艦隊 戦列艦(Ship:HMS) イギリスのフリゲート艦
ドルフィン号とバイロン提督


ギルバート諸島 1977/6/1 発行
・サフォーク号 Suffolk 74 旗艦
・ボイン号 Boyne 70
・ロイアルオーク号 Royal Oak 74
・プリンスオブウェールズ号 Prince of Wales 74 旗艦、前衛
・マグニフィセント号 Magnificent 74
・トライデント号 Trident 64
・メドウェイ号 Medway 60
戦列艦
・フェイム号 Fame 74
・ノンサッチ号 Nonsuch 64
・サルタン号 Sultan 74
・プリンセスロイヤル号 Princess Royal 90 旗艦、中衛バイロン提督
・アルビオン号 Albion 74
・スターリングキャッスル号 Stirling Castle 64
・エリザベス号 Elizabeth 74
戦列艦
・ヤーマス号 Yarmouth 64
・ライアン号 Lion 64
・ビジラント号 Vigilant 64
・コンカラー号 Conqueror 74 旗艦、後衛
・コーンウォール号 Cornwall 74
・モンマス号 Monmouth 64
・グラフトン号 Grafton 74
・アリアドネ号 Ariadne 20
参考HP:〜
グレナダの海戦の艦隊配置図

・リザード岬沖の海戦
 (Battle of Cape Lizard、1778/6/17)イギリスの勝利
 別名:ベルプーレ号とアレトゥーサ号の戦い
    (Fight of Belle Poule and Arethusa、1778/6/17)
 別名:1778/6/17の海戦(Action of 17 June 1778)
リザード岬沖の海戦は、イングランド南西端コーンウォール州南端リザード岬(Lizard Point, Cornwall, England)沖で、フランスのフリゲート艦ベルプーレ号とイギリスの68門戦列艦アレトゥーサ号の戦いとしても知られる海戦で、正式な宣戦布告が発表される前のアメリカ独立
リザ
|→
ド岬
リザード岬の場所地図
イギリス

ジャージー 1976-77 発行

フランス
戦争中の最初の海戦。1778/6/13にケッペル提督艦隊の戦列艦21隻とフリゲート艦3隻が、両国の戦争前に、フランス艦隊を監視するためにブレスト方面へ派遣され、6/17にフランスのベルプーレ号クロシェトリー艦長の偵察艦隊がリザード岬の南37kmでイギリス艦隊に遭遇して海戦となる。
仏英の艦隊 主力 司令官
・フランス フリゲート艦2隻、コルベット艦1隻 クロシェトリー艦長
・イギリス 戦艦3隻、カッター艦1隻 ケッペル提督
艦長ジャン・アイザック・ティモシー・シャドー、シャー・デ・ラ・クロシェトリー
 (Jean Isaac Timothee Chadeau, Sieur de la Clocheterie, 1741-1782:Sieur=Sir)

・対戦艦船名:〜
フランス艦隊 艦名 3隻 フランスのフリゲート艦
ブドーズ号


サモア 1968/10/10 発行
・ベルプーレ号 BellePoule 26 フリゲート艦 旗艦、艦長負傷で撤退
・リコーン号 Licorne 26 フリゲート艦 降伏、捕獲
・ヒロンデル号 Hirondelle コルベット艦 英アラート号が捕獲
・クーラー号 Coureur カッター艦 脱出
イギリス艦隊 (HMS) 4隻
・アレトゥーサ号 Arethusa 68 3等戦列艦 旗艦、大破後、曳航
・アメリカ号 America 64 3等戦列艦
・ミルフォード号 Milford 28 6等戦列艦
・アラート号 Alert カッター艦
参考HP:〜
リザード岬の場所地図
コーンウォール州の場所地図(半島)

・グレナダ占領
 (Capture of Grenada, 1779/7/2-7/4)フランスの勝利
グレナダ占領 は、アメリカ独立戦争中盤の1779年に、フランスがイギリス領西インド諸島のグレナダに侵攻し、占領した戦いで、伯爵デェスタイン提督が指揮するフランス軍は7/2にグレナダ島に上陸し、3日の夜に島の首都セントジョージズを見下ろすホスピタル・ヒルにあったイギリス軍要塞を攻撃。そこで捕獲した大砲がジョージ砦に向けられたので、島の総督マカートニー卿が降伏のための交渉に応じた。デスタン提督はマカートニーの提示した降伏条件を拒否し、既に書いていた厳しい条件の採用に固執。マカートニーはこれを拒否し、無条件降伏を選んだ。その後、デスタンは部隊に町の略奪を許可し、マカートニーは戦争捕虜としてフランスに送られた。
グレナダ島

グレナダ 1995 発行
1779/7/5にバイロン提督のイギリス艦隊が接近しているという情報が入り、フランス軍は艦船に再度乗り込んだ。翌7/6にグレナダの海戦が起こり、フランス艦隊は、イギリスの艦船数隻に大きな損傷を与えた。海戦の後、両艦隊はそれぞれの基地に戻った。グレナダ島は独立戦争の終戦までフランスの支配下に留まり、1783年のパリ条約の条件によってイギリスの支配に戻された。
参考HP:〜
グレナダの場所地図海戦の艦隊配置図

(7)ポルト・プラヤの海戦
 (Battle of Porto Praya, 1781/4/16)フランスの戦略的勝利
ポルト・プラヤの海戦は、アメリカ独立戦争中に英仏艦隊の間で起きた海戦。両国艦隊はともに喜望峰に向かっている途中で、イギリス艦隊はそれをオランダから奪うため、一方のフランス艦隊はオランダの防衛を助け、さらにインド洋のフランス領へ向かうためだった。イギリスの輸送船団と護衛の艦隊は、給水のためにカーボベルデ諸島ポルト・プラヤに錨泊していた。そこにフランス艦隊が到着し、錨を
カーボヴェルデの場所地図

ヴェルデ岬諸島 1987 発行、小型シート
打って彼らを攻撃。戦果は互角なるも、戦略的にはフランスの勝利。サフレン提督は喜望峰に向かうジョンストン提督に打撃を与え、またオランダ側に警告を与えた。サフレン提督はそのままイル・ド・フランス(現モーリシャス)に向かった。
ドーヴェルニュ艦長ポルト・プラヤの海戦こちら
艦 隊 主力 その他 司令官 サフレン乗艦
・フランス 戦列艦5隻 フリゲート艦3隻
コルベット艦 1隻、商船 7隻
サフレン提督 エロース号
・イギリス 戦列艦5隻 カッター艦16隻、火船艦1隻
爆弾艦1隻、商船 19隻
ジョンストン提督
仏英の艦隊編成:〜参加戦艦名
フランス艦隊 戦列艦 フランスのコルヴェット艦
アルクメン号

ニューカレドニア 2002 発行
エロース号 Heros 74 旗艦、サフレン提督、銅板張り
・アニバル号 Annibal 74 トレミゴン艦長(Achille de Tremigon)
・アルテジャン号 Artesien 64 銅板張り
・ヴァンジュール号 Vengeur 64 銅板張り
・スファンクス号 Sphinx 64 銅板張り
・フリゲート艦 3
・フォーチュン号 Fortune 16 コルベット艦
・輸送艦(戦い不参加) 隻、銅板張り
イギリス艦隊 戦列艦 (HMS)
・ヒーロー号 Hero 74  3
・モンマス号 Monmouth 64  4 イギリスのスループ艦
プロビデンス号


セントヘレナ 1998/8/25 発行
・アイシス号 Isis 50  4
・ジュピター号 Jupiter 50  4
・ロムニー号 Romney 50  5 旗艦
・アポロ号 Apollo 38  5
・ジェイソン号 Jason 36  5
・アクティヴ号 Active 32  5
・ダイアナ号 Diana 28  5
・ラーク号 Lark 16 スループ
・インファーナル号 Infernal 火船 カッター(fire)
・テラー号 Terror 爆弾船 カッター(bomb)
・商船 19
※輸送艦にはトーマス・コンウェイ准将のポンディシェリー連隊が乗船。
・ドーヴェルニュ提督のポルト・プラヤの海戦こちら
参考HP:〜
カーボベルデの場所地図
カーボベルデの場所地図(古地図)

<インド洋作戦>
 (Campaign in the Indian Ocean)
(8)サドラスの海戦
 (Battle of Sadras, 1782/2/17)フランスの勝利
サドラスの海戦は、英仏戦争(Anglo-French War, 1778-1783)中にインドの東海岸沖でヒューズ提督イギリス艦隊とサフレン提督フランス艦隊の間で戦われた海戦の最初のもので4大海戦の一つ。
インド洋方面の地図

フランス 1988 発行
1782/2/17に現カルパッカム(旧マドラス)近くのベンガル湾での海戦は戦術的に決定的ではなく、イギリス艦隊が最も大きな被害を受けた。サフレン艦隊の保護下でフランス輸送船団は現在の南インドのタミル・ナードゥ州カダルール県沿岸の都市パランギペッタイ(旧ポルト・ノヴォ:Porto Novo)に上陸。サフレン艦隊は修理後、ヒューズ艦隊を探索に出帆。フランス艦隊とマイソール軍は4/4にポルトノボのすぐ北にあるカッダロールを占領した。ヒューズ艦隊はトリンコマリーに向けて出帆し、そこで修理した。
艦 隊 主力 司令官 サフレン乗艦
・フランス 戦列艦11隻 サフレン提督 エロース号
・イギリス 戦列艦9隻 ヒューズ提督
仏英の艦隊編成:〜参加戦艦名
フランス艦隊 戦列艦 フランスのフリゲート艦
ベルポール号


ナポレオンの遺体を本国送還)
セントヘレナ 1998 発行
エロース号 Heros 74 旗艦、サフレン提督
・ビザール号 Bizarre 64
・オリエント号 Orient 74
・スフィンクス号 Sphinx 64
・アベンジャー号 Vengeur 64
・プチアニバル号 Petit Annibal 50
・アニバル号 Annibal 74 トロメリン艦長
・シヴィアー号 Severe 64
・アルテシアン号 Artesien 64
・アヤックス号 Ajax 64
・ブリリアント号 Brillant 64
・フラマン号 Flamand 54
イギリス艦隊 戦列艦 (HMS) イギリスの戦列艦
ロイアルジョージ

BIOT 1999 発行
・イーグル号 Eagle 64
・モンマス号 Monmouth 64
・ウースター号 Worcester 64
・バーフォード号 Burford 64
・スペルブ号 Superb 74
・ヒーロー号 Hero 74
・アイシス号 Isis 50
・モナルカ号 Monarca 74
・エクセター号 Exeter 64
参考HP:〜
マドラスの場所地図(Madras)
(9)プロヴィディーンの海戦
 (Battle of Providien, 1782/4/12)フランスの勝利
プロビディエンの海戦はヒューズ提督イギリス艦隊と、英仏戦争(Anglo-French War, 1778-1783)中にインド沖のサフレン提督フランス艦隊との間で行われた一連の海戦の2番目で、戦いはセイロン島東海岸トリンコマリー沖南にある岩だらけ小島のプロビディーン小島(Islet Providien)近くでの海戦。
トリンコマリーの場所地図

スリランカ 1988 発行


リンコマリ
艦 隊 主力 その他 司令官 サフレン乗艦
・フランス 戦列艦12隻 フリゲート艦2隻 サフレン提督 アヤックス号
・イギリス 戦列艦11隻 ヒューズ提督
仏英の艦隊編成:〜参加戦艦名
フランス艦隊 戦列艦 フランスの戦列艦
ノーサンバーランド号


セントヘレナ 1998 発行
アヤックス号 Ajax 64 旗艦、サフレン提督、エロース号後継
・ヴァンジュール号 Vengeur 64
・アルテジャン号 Artesien 64
・プチアニバル号 Petit Annibalr 50
・スファンクス号 Sphinx 64
エロース号 Heros 74
・オリエント号 Orient 74
・ブリリアント号 Brillant 64
・シヴィアー号 Severe 64
・アニバル号 Annibal 74 トロメリン艦長
・フラマン号 Flamand 54
・ビザール号 Bizarre 64
フランス軽艦隊 French light units
・ファイン号 Fine 32 フリゲート艦
・ポウドリーマー号 Pourvoyeuse 32 フリゲート艦
イギリス艦隊 戦列艦HMS 等艦 イギリスの戦列艦
アガメムノン号


ジブラルタル 2007 発行
・エクセター号 Exeter 64  4
・スルタン号 Sultan 74  3
・イーグル号 Eagle 64  4
・バーフォード号 Burford 64  4
・モンマス号 Monmouth 64  4
・シューペルブ号 Superb 74  3 旗艦、ヒューズ提督
・マグナニム号 Magnanime 64  4
・アイシス号 Isis 50  5
・ヒーロー号 Hero 74  3
・ウースター号 Worcester 64
・モナルカ号 Monarca 74
参考HP:〜
トリンコマリーの場所地図

(10)ネガパタンの海戦、イギリスの勝利
(Battle of Negapatam、Bay of Bengal, off Negapatam port, 1782/7/6)
ネガパタンの海戦はアメリカ独立戦争中にサフレン提督フランス艦隊とヒューズ提督イギリス艦隊との4大海戦の一つで、インド南部タミル・ナードゥ州ナーガパッティナム県ベンガル湾ネガパタン(現ナーガパッティナム:Nagapattinam, Tamil Nadu)港沖にてイギリス艦隊とフランス艦隊が戦った海戦。戦いは決定的ではなくも、サフレン艦隊はヒューズ艦隊によってネガパタン港の奪還を阻止されてカッダロールに撤退し、イギリス軍はネガパタン港を支配。フランスは1778年にアメリカ独立戦争に突入し、イギリスは1780年後半にオランダ共和国
インド洋とインド地図

インド 2006 発行
に宣戦布告。これらのニュースがインドに届いたとき、イギリスはフランスとオランダのほとんどのインド基地を急速に占領。その過程で第二次マイソール戦争を引き起こした。ネガパタン港も1781/11月に英インド駐在軍総司令官マンロー将軍に占領された。サフレン提督はインドのフランス植民地に軍事援助を提供する任務で派遣され、1782/2月に到着。すぐにヒュー艦隊とサドラスの海戦が勃発後、両艦隊は港の修理、改修に時間を費やした後、セイロンのトリンコマリー港の南での4月のプロヴィディーンの海戦で再び戦った。そして1782/7/6にネガパタンの海戦が勃発。パリ条約(1783)でオランダ共和国はネガパタン港をイギリスに譲渡。
仏ス英の艦隊 主力 その他 司令官 サフレン乗艦
・フランス 戦列艦12隻
フリゲート艦1隻
コルベット2隻
火船艦1隻
サフレン提督 エロース号
・イギリス 戦列艦11隻 フリゲート艦1隻 ヒューズ提督
仏英の艦隊編成:〜参加戦艦名”ship of the line”
フランス艦隊 戦列艦 フランス戦列艦
ヴィル・ド・パリ号


セントヴィンセント 1989 発行
・フラマン号 Flamand 54
・アニバル号 Annibal 74 トロメリン艦長
・シヴィアー号 Severe 64
・ブリリアント号 Brillant 64
エロース号 Heros 74 旗艦、サフレン提督
・スフィンクス号 Sphinx 64
・プチ・アニバル号 Petit Annibal 50
・アルテシエン号 Artesien 64
・ベンジャー号 Vengeur 64
・ビザール号 Bizarre 64
・オリエント号 Orient 74
・アヤックス号 Ajax 64
フランス軽艦隊 French light units
ファイン号 Fine 32 フリゲート艦
デリジェント号 Diligent 10 コルベット艦
サブタイル号 Subtile 24 コルベット艦
プルヴェリサトール号 Pulverisateur 12 火船艦
イギリス艦隊(Britain)”ship of the line”
イギリス艦隊 戦列艦(HMS) イギリス戦列艦
ロイアル・アデレード号


リベリア 1972 発行
・ヒーロー号 Hero 74
・エクゼター号 Exeter 64
・アイシス号 sis 50
・バーフォード号 Burford 70
・サルタン号 Sultan 74
・スペルブ号 Superb 74
・モナルカ 号 Monarca 70
・ウーセスター号 Worcester 64
・モンマス号 Monmouth 64
・イーグル号 Eagle 64
・マグナニム号 Magnanime 64
・シーホース Seahorse 24 フリゲート艦
参考HP:〜
ナーガパッティナム県の場所地図
タミル・ナードゥ州の場所地図

(11)トリンコマリの海戦
 (Battle of Trincomalee, 1782/8/25-9/3)引分
トリンコマリーの海戦はアメリカ独立戦争中、1782/9/3にインドの沖合セイロン島(現スリランカ)北東部の港湾都市で東部州の州都トリンコマリー県々都トリンコマリー(Port city of Trincomalee, Trincomalee District, Eastern Province, Sri Lanka)海岸沖で、ヒューズ提督イギリス艦隊と、サフレン提督フランス艦隊との間で、戦われた海戦。
トリンコマリーの場所地図

スリランカ 1988 発行


リンコマリ
1782/8/25にサフレン艦隊は主要な要塞の東に2,400人の兵士を上陸させ、翌日に砲台を設置して砦壁が破れるまで3日間も要塞を砲撃。8/30にフランス軍はイギリス司令官マクダウォール中将(Lt.-Gen. Hay MacDowall, スコットランド生-1809/3没)へ降伏を勧告。交渉の後、要塞のイギリス駐屯軍はフランス軍がマクダウォール軍をマドラスに輸送することを条件に降伏。フランス軍は9/1にトリンコマリーに入城してトリンコマリーを占領ネガパタンの海戦の後、ヒューズ艦隊は修理でマドラスにいて、英ヒューズ提督は偵察兵にフランス軍がトリンコマリー港外に停泊している報告を受けると、急いでイギリス駐屯軍を助けに出撃するも、到着が遅すぎて間に合わず。翌日(9/2)に、ヒューズ艦隊が港に接近しているのをフランス軍が発見。サフレン艦隊が迎撃にトリンコマリーを出帆してトリンコマリの海戦が勃発。砲撃戦の後に、イギリス艦隊の被害が非常に深刻だったため、ヒューズ艦隊はマドラスへと撤退。サフレン艦隊はトリンコーマリー港に入り、艦隊の広範囲にわたる損傷の修復に取り組んだ。
仏英の艦隊 主力 司令官 サフレン乗艦
・仏スペイン 戦列艦14隻、フリゲート艦2隻、他1隻 サフレン提督 エロース号
・イギリス 戦列艦12隻、補助艦艇6隻 ヒューズ提督
仏英の艦隊編成:〜参加戦艦名”ship of the line”
フランス艦隊:〜青色:サフレン提督に命令違反を問われた艦長(5人)
前衛(Van)仏艦隊 戦列艦 フランスのフリゲート艦

セント・ヴィンセント 1989 発行
・アルテシアン号 Artesien 64 フェリックス艦長
・シヴィアー号 Severe 64
・サンミッシェル号 Saint-Michel 60
・オリエント号 Orient 74
・ブリリアント号 Brillant 64
・フォーチュン号 Fortune 10 スループ艦
主力仏艦隊 (Centre)
・プチアニバル号 Petit Annibal 50 ガレス艦長
・スフィンクス号 Sphinx 64
エロース号 Heros 74 旗艦、サフレン提督
・イラストル号 Illustre 74
・フラマン号 Flamand 54
・ベローネ号 Bellone 32 アンドレ艦長 フリゲート艦
後衛仏艦隊 (Rear)
エイジャックス号 Ajax 64
・アニバル号 Annibal 74 トロメリン艦長旗艦
・ヴァンジュール号 Vengeur 64
・ビザール号 Bizarre 64 ランデル艦長
・コンソランテ号 Consolante 40 フリゲート艦
イギリス艦隊:〜 イギリス戦列艦
エイジャックス号

リベリア 1972/9/6 発行
前衛(Van)艦隊 戦列艦(HMS)
・エクセター号 Exeter 64
・アイシス号 Isis 50
・ヒーロー号 Hero 74
・セプター号 Sceptre 64
・バーフォード号 Burford 64
・スルタン号 Sultan 74
・スペルブ号 Superb 74
・モナルカ号 Monarca 74
・イーグル号 Eagle 64
・マグナニーム号 Magnanime 64
・モンマス号 Monmout 64
・ウースター号 Worcester 64
付属の補助艦艇 British light ship attached
・サンカルロス号 San Carlos ?
・アクティブ号 Active 40 5等艦(Fifth rate)
・メデア号 Medea 28 5等艦
・コベントリー号 Coventry 28 5等艦
・シーホース号 Seahorse 24 5等艦
・コンバスション号 Combustion 10 ?
参考HP:〜
トリンコーマリー県の場所地図

(12)カッダロールの海戦
 (Battle of Cuddalore, 1783/6/20)フランスの勝利
カッダロールの海戦は、イギリスのヒューズ提督艦隊と、アメリカ独立戦争中インドのカッダロール沖で仏サフレン提督艦隊との間の海戦で、この戦争はインドで第二次マイソール戦争(1780-1784)を引き起こした。1783/6/20にベンガル湾カッダロールの近くで行われた海戦で、サフレン提督は32門フリゲート艦クレオパトラ号で指揮してフランスが勝利。ヨーロッパではすでに平和が合意されているも、そのニュースはまだインドに届いておらず、これが戦争の最後の戦いとなった。フランスの同盟国ハイダー・アリーの没後、イギリス軍はカッダロール
インド洋とインド地図

インド 2006 発行
を奪還することを決定。イギリス軍はマドラス(南インド東側タミル・ナードゥ州ベンガル湾に面する現チェンナイ)から軍隊を進軍して包囲の準備を始めた。フランスのサフレン艦隊は、6/13にカッダロールに現れた。1週間の気まぐれな風のため、サフレン艦隊が攻撃した6/20まで、どちらの側も交戦できず。イギリス艦隊は戦い後にマドラスに撤退し、包囲を強化するためにカッダロールに向かう途中で追加の軍隊を運ぶ輸送艦隊からの上陸を阻止。サフレン艦隊は海戦後、カッダロールの北約25海里(46.3km)に停泊し、ヒューズ艦隊は街の近くに停泊。6/22にヒューズ提督はマドラスに向かう途中でフランス艦隊を目撃。ヒューズ艦隊の多くの艦艇は古くて無力で、多くの乗組員が壊血病に苦しみ、水が不足していた。サフレン艦隊は6/23にカッダロールに戻り、イギリスのヒューズ提督補給艦隊をカッダロール包囲中のイギリス陸軍を極めて危険な状態に置き去りにしたまま、マドラスへと撤退させた。イギリス軍は弱体化し、平和の宣言(パリ講和条約)の知らせが6/29に正式にカッダロールに到着して、7/2に相互に敵対行為の停止を合意した。
仏英の戦艦隊 主力 その他 司令官 メモ
・フランス 戦列艦15隻 フリゲート艦4隻 サフレン提督 クレオパトラ号
・イギリス 戦列艦18隻 フリゲート艦5隻 ヒューズ提督 他4隻
フランス艦隊 戦列艦(Ship) フランスのフリゲート艦※
グラス提督 と ランドルフ号


マダガスカル 1975 発行
・スフィンクス号 Sphinx 64
・ブリリアント号 Brillantl 64
・フェンダント号 Fendant 74 前衛、旗艦
・フラマン号 Flamand 54
・アヤックス号 Ajax 64
・ファイン号 Fine 32
・プチアニバル号 Petit Annibal 50
・アルゴノート号 Argonaute 74
・エロース号 Heros 74
・イラストル号 Illustre 74
・サンミッシェル号 Saint Michel 60
クレオパトラ号 Cleopatre 32 ※、旗艦、サフレン提督
・アベンジャー号 Vengeur 64
・シヴィアー号 Severe 64
・アニバル号 Annibal 74 イマール艦長(Louis-Esprit d'Aymar)
・ハーディ号 Hardi 64
・アルテシアン号 Artesien 64
・コンソランテ号 Consolante 40
・コベントリー号 Coventry 28
仏英艦隊 前衛 中衛 後衛 その他
フランス 戦列艦5隻
フリゲート艦1隻
戦列艦5隻
フリゲート艦1隻
戦列艦5隻
フリゲート艦2隻
イギリス 戦列艦5隻
フリゲート艦1隻
戦列艦7隻
フリゲート艦1隻
戦列艦6隻
フリゲート艦3隻
スループ1隻
貯蔵艦2隻、輸送艦1隻
イギリス艦隊 戦列艦(HMS) イギリス戦列艦
フッド提督 バーフラー号

アンチグア 1970 発行
・ディフェンス号 Defence 74
・アイシス号 Isis 50
・ジブラルタル号 Gibraltar 80 前衛、旗艦
・インフレキシブル号 Inflexible 64
・エクセター号 Exeter 64
・アクティブ号 Active 32
・ウースター号 Worcester 64
・アフリカ号 Africa 64
・スルタン号 Sultan 74
・スペルブ号 Superb 74 中衛、旗艦、ヒューズ提督
・モナルカ号 Monarca 74
・バーフォード号 Burford 64
・セプター号 Sceptre 64
・メデア号 Medea 28
・マグナニム号 Magnanime 64
・イーグル号 Eagle 64
・ヒーロー号 Hero 74 後衛、旗艦
・ブリストル号 Bristol 50
・モンマス号 Monmouth 64 イギリスのスループ艦
スワロー号


ピトケーン 1998 発行
・カンバーランド号 Cumberland 74
付属の補助艦艇 British light ship attached
・サンカルロス号 San Carlos 22 武装貯蔵艦(Armed Storeship)
・ハリオット号 Harriott 22 同上
・チェイサー号 Chaser 18 スループ艦
・ジュノー号 Juno 32 ※5等艦
・メデア号 Medea 28 ※同上
・シーホース号 Seahorse 24 ※同上
・ポンディシェリ号 Pondicherry 18 兵員輸送艦(troop ship)
※フリゲート艦
参考HP:〜
ベンガル湾の場所地図

・イギリス護送船団との遭遇戦
 (Action of 9 August、1780/8/9)フランスの勝利
 戦場:ポルトガル南部サン・ヴィセンテ岬沖
 (Cape St. Vincent、ポ:Cabo de Sao Vicente)
イギリス護送船団との遭遇戦はアメリカ独立戦争中に、スペインのコルドヴァ提督艦隊がフランスのボーセット提督艦隊とともに大規模なイギリスモートレイ艦長護送船団に、1780/8/9に遭遇。仏ス艦隊は英護送船団のほぼ全ての商船を捕獲し、イギリスの商船に深刻な打撃を与えた。
その海戦は、1780/7/27にイギリスの護送船団がポーツマスを出帆。
8/9に英護送船団は、カディスから出帆した仏ス艦隊に遭遇。
仏ス艦隊は、英商船63隻の内55隻を捕獲してカディスへ連行・帰港。
スペイン戦列艦
サンテズマ・トリニダード号

スペイン 1964 発行
なお、銅板張りの英商船の8隻が辛うじて逃げ切ったといわれている。
また、このスペインの勝利は、カリブ海での深刻な暴風雨による損失と相まって、ヨーロッパ中の海上保険引受会社の間で金融危機を引き起こした。多くが破産し、私掠船の存在で、すでに著しく高い戦争保険料が、耐え難いレベルに追いやられた。
仏ス英の艦隊 主力 その他 司令官
・仏スペイン 戦列艦31隻 フリゲート艦6隻 ボーセット提督
ス:コルドヴァ提督
・イギリス 戦列艦1隻 フリゲート艦2隻、商船63隻 モートレイ艦長
コルドヴァ艦隊の旗艦
サンテズマ・トリニダード号
イギリス護衛艦隊
・戦列艦ラミリーズ号(HMS Ramillies, 74gn)、モートレイ艦隊の旗艦
・フリゲート艦テティス号(HMS Thetis, 36gn)
・フリゲート艦サザンプトン号(HMS Southampton, 36gn)
東インド会社の武装商船
(イーストインディアマン型:East Indiaman, British East India Co. 1600-1874)
・ロイヤルジョージ号(30gn, 1777)スペインに捕獲後、リアルホルヘ号(Real Jorge, 40gn)
・など63隻
なお上記は、こちらのロイヤルジョージ号(100gn, 1756)とは別。
参考HP:〜
サンヴィセンテ岬の場所地図

・カッダロールの包囲戦
 (Siege of Cuddalore, 1783/6/7-7/25)引分
 戦場:タミル・ナードゥ州カダルール県カッダロール
  (Cuddalore, Cuddalore district, Tamil Nadu State, India)
カッダロールの包囲戦は、第二次マイソール戦争中にフランスとマイソール王国の合同駐屯地のカッダロール要塞に対するイギリス軍の包囲攻撃戦。決着が付かぬ間に、フランスとイギリスの間の予備的な平和条約のニュースが到着して包囲は終わる。1783/6/7にフランスとマイソール連合軍が守備するカッダロール要塞をイギリスが包囲して攻撃を開始。1783/6/20にカッダロールの海戦が勃発
インド洋とインド地図
してフランスが勝利後、サフレン艦隊が2,400人の部隊を上陸させて要塞の守備を強化。6/30にイギリスのフリゲート艦によって平和条約のニュースが到着。7/2に英国とフランスは敵対行為の停止について交渉するも、マイソール王国と英国の争いは続いていた。パリ平和条約(1783)では、戦争の初期にイギリス軍が占領した2つのフランス領ポンディシェリとマヘと引き換えに、カッダロールがイギリスに返還された。1784年3月にマンガロール条約が調印されるまで、イギリス軍とマイソール軍の間で戦闘が続いた(第二次マイソール戦争)。
参考HP:〜
カッダロール県の場所地図


・マイソール戦争
 (Anglo-Mysore War, 1767-1799)
マイソール戦争は、18世紀後半に4度に渡って南インドのマイソール王国(Kingdom of Mysore, 1399-1947)とイギリス東インド会社との間で行われた戦争で、第一次・第二次戦争はマイソール王国のハイダル・アリー(Hyder Ali, 1720c-1782)とティプー・スルタン(Tipu Sultan, 175-1799)の父子に率いられたマイソール軍がイギリスに対して優位を保っていた。第三次戦争ではマイソール王国は諸勢力と連携を保てず、逆にイギリスと連携させてしまうこととなり、劣勢となった。第四次戦争ではティプー・スルタンが戦死して、マイソール戦争はイギリスの勝利で終結。
インドの地図

インド 1943 発行
マイソール戦争は、実に30年以上にわたって繰り広げられ、またその時期がアメリカ独立戦争フランス革命ナポレオンの登場の時期に当たっており、イギリスとフランスの対立という国際情勢と密接に関係していた。また結局は敗れるも、インドの封建的権力がイギリスという資本主義国と互角に戦った戦いだった。18世紀後半にムガール帝国に朝貢していたマイソール王国は、イスラム軍人ハイダル・アリーとその子ティプー・スルタンが政権を握り、王権は傀儡化していた。ハイダル・アリーらが主導したマイソール戦争は約30年続くも、結果的に敗れてマイソール王国はイギリスに従属する藩王国となった。
・マイソール戦争の経過
 ・第1次マイソール戦争(1767-1769)
 ・第2次マイソール戦争(1780-1784)
 ・第3次マイソール戦争(1790-1792)
 ・第4次マイソール戦争(1799)
南インドのムガール帝国カルナータカ地方(アラビア海に面したカルナータカ州)のオデヤ朝(ヒンドゥー)マイソール王国(Kingdom of Mysore, 1399-1947)は古来から季節風貿易での莫大な利益で潤っており、土地も豊かだった。同国では1761/6月以降、イスラム軍人のマハラジャ(Maharaja:族長)ハイダル・アリーが実権を握って支配者になっており、ヒンドゥーの王(太守:Nawab)は有名無実化していた。そのころ植民地の拡張を目指していたイギリス東インド会社が、ムガール帝国のベンガル太守をプラッシーの戦い(Battle of Plassey、1757/6/23)で破り、ムガール帝国のアワド太守(Nawab of Awadh, 1722-1856)・ベンガル太守(Nawab of Bengal, 1717-1947)連合軍をブクサールの戦い(Battle of Buxar、1764/10/23)で破り、カルナータカ太守(Nawab of Carnatic、ムガール帝国のタミル地方とアーンドラ地方の一部の地方長官、1692-1858)とは同盟してマドラスを使用させ、デカン高原のマラーター王国やニザーム王国(Nizam of Hyderabad(ハイダラーバード王国)1724-1948)などはイギリスと協力関係を結ぶなど、植民地の拡張を目指して南インドへと攻勢をかけてきた。
18世紀後半、イギリスのインド植民地拡大に対し、最も激しく抵抗したのが南インドのマイソール王国であった。マイソール王国はヴィジャヤナガル王国(Vijayanagara Empire (カルナータカ王国:Karnata Kingdom)1336-1646)の崩壊後、その後継国家として南インドに成立した。ムガール帝国の衰微に乗じてイスラム教徒のハイダル・アリーとティプー・スルタンの親子が農業を奨励し、産業の近代化を図るなどによって国力を再建。マドラスを拠点として南インドに進出してきたイギリスに激しく抵抗し、1767年から4次にわたるイギリスとの戦争を展開、1780年には8万の軍でマドラスに迫り、イギリス軍に脅威を与えた。イギリス(ベンガル総督)は1799年総攻撃をかけ、王都スリランガパトラムを落とし、ティプー・スルタンは戦死して戦争が終わり、イギリスは南インドに勢力を拡大した。

・第一次マイソール戦争
 (1st Anglo-Mysore War, 1767-1769)マイソール王国の勝利(マドラス条約の締結)
ヒンドゥー教国であったマイソール王国でイスラム教徒のハイダル・アリーが実権を握り、勢力を拡張していることに対し、宗主国を自認するマラーター同盟と、北に隣接するハイデラバード王国がイギリス東インド会社軍と結んで三方から攻撃を加えた。これに対してハイダル・アリーはマラーター同盟・ハイデラバードには領土の割譲や人質を出すなどの妥協をしながら巧みな外交折衝で講和に持ち込み、的をイギリスだけに絞り、マドラス攻撃を目指した。マイソール軍のマドラス総攻撃を前にイギリスは妥協し、1769年に捕虜交換と攻守同盟を結んで講和した。その後、マラータ同盟の内紛にイギリス・フランスが介入して、第一次マラーター戦争(1775-82)が起きてマラーター同盟は弱体化したため、マイソール王国は南インドで最大の勢力となった。イギリスもベンガル地方での徴税権を獲得するなどインドの植民地化を進めているも、一方で1775年にアメリカ独立戦争が始まり、その情勢はインドにも影響を及ぼした。

第二次マイソール戦争
 (2nd Anglo-Mysore War, 1780-1784)引き分け(マンガロール条約の締結)
マイソール王国のハイダル・アリーはフランスやマラーター同盟と結んでイギリスをたたく機会が来たと判断し、1780年に宣戦布告してマドラスに総攻撃を開始。カルカッタからマドラスに向かうイギリスの援軍がマイソール軍に大敗を喫するなど、戦いはマイソール軍の優勢で進んだ。マドラスのイギリス人は艦船で海上に逃れるなど危機が迫った。イギリスはカルカッタのベンガル総督ヘースティングスがマラーター同盟とマイソール王国の離反を画策、さらにボンベイから東インド会社軍を派遣して西側からマイソール王国を攻撃させるなど対応に追われた。1782年に陣中でハイダル・アリーが病(結核?)で亡くなり、その子ティプー・スルタンは戦争を継続するも、フランスがパリ条約(1783)でイギリスと講和してインドでの戦争から脱落したため、戦線を縮小せざるを得なくなり、翌年マンガロールで講和した。ティプー・スルタンは残虐ともいえる捕虜の扱いや、果敢な軍事行動でイギリス側を恐怖に陥れ、講和交渉を有利に進め、ヘースティングス総督をして「もっとも屈辱的な講和だ」と言わしめるような、イギリスにとって何も得るもののない講和として終わった。新たなマイソール王国の指導者となったティプー・スルタンもイギリスの国力の高さを認識せざるを得なかった。彼は国内の土地制度の改革、近代産業の育成などに着手し、フランスから技術者を招いて兵器の近代化にも着手。さらに1785年にはオスマン帝国のスルタンに使節を派遣してイスラム国家としての同盟を申し込み、1788年にはフランスのルイ16世に使節を派遣して対イギリスの攻守同盟締結を申し出ている。これはフランス革命勃発直前という情勢であったため結実せずも、ティプー・スルタンが幅広い国際感覚を持っていたことを示している。

・第三次マイソール戦争
(3rd Anglo-Mysore War, 1789、or 1790-1792)イギリスの勝利
(シュリーランガパトナ条約の締結)マイソール王国の領土半減
新たにベンガル総督となったコーンウォリス将軍(アメリカ独立戦争でワシントン軍に敗れた将軍)は、マイソール王国のティプー・スルタンに対する全面的な戦争を準備した。1790年にマイソール王国が南部のヒンドゥー勢力攻撃に出たことを口実に、イギリス軍は対マイソール軍事作戦を開始。マラーター同盟ハイデラバードの軍も加えたイギリス軍は三方からマイソール王国に侵攻、ついにカーヴェリー川
ワシントン将軍とコーンウォリス将軍

グレナダグレナディーン 1975 発行
の中州にある首都スリランガパトラム城を包囲した。ティプー・スルタンはなおもフランスの援軍を期待するも、革命最中のフランスにはその余力はなく、1792/2月にイギリス軍は総攻撃、1万5千の犠牲(大部分はインド人傭兵)を出しながらティプー・スルタンを降伏させた。マイソール側は国土の割譲、賠償金の支払い、二人の王子を人質とすることなどの条件で降伏に同意。イギリスへの復讐の機会をねらっていたティプー・スルタンは、1794年にマイソール領内で雇われていたフランス人のなかに本国にならったジャコバン・クラブが結成されると、その名誉会員となってフランスへの再接近を試みた。そのため当時フランス領のインド洋モーリシャス諸島の守備隊を中継して総裁政府に対し、共同してイギリス打倒に当たろうと申し込むための使節を派遣。その話はインド在留のイギリス人にも伝わり、折からのナポレオンのエジプト遠征と重ね合わされて、フランス軍のインド来援があるかもしれないと大きな動揺が起こった。事実ティプー・スルタンの要請はナポレオンの耳に入り、彼もインドのイギリス軍を直接たたく野心を抱き、ティプー・スルタンに同意の返事を書いた。しかしこの手紙は、ナポレオン海軍がアブキール湾でイギリス海軍に敗北して届かなかった。

・第四次マイソール戦争
 (4th Anglo-Mysore War, 1798-1799、or 1799のみ)イギリスの勝利
  マイソール王国の領土さらに半減、および旧王朝の復活と同国の藩王国化
イギリスのベンガル総督ウェルズリはマイソール王国がフランス共和国と同盟することを恐れて総攻撃開始を決意し、1799/2月に攻撃軍を派遣。イギリス軍はマドラスとボンベイの両面から攻撃し、マラーター同盟など、イギリスに同調する諸侯も加わった。またマイソール領内のヒンドゥー教徒も、今まで抑えられていたイスラム政権に対する反感を表に出し、イギリス軍を「解放軍」として歓迎。マイソール軍の士気も低下し、ティプー・スルタンも外交上の努力が好転しないことから戦機を失することとなり、マルバリの会戦()で大敗し、首都スリランガパトラム城に籠もった。4月から総攻撃が開始され、イギリス軍の示す降伏条件を拒否したティプー・スルタンは5/4に銃撃で亡くなった。マイソール王国はイギリスに降伏し、イギリスの南インド支配は確立した。その後、マイソール王国ではイギリスによってヒンドゥー教徒の前王家が復位するも、実質的な独立を失って藩王国としてイギリスに従属することとなった。
参考HP:〜
マイソール王国の場所地図(インドの地図)

・第一次マラーター戦争
 (First Anglo-Maratha War、1775-1782)
 対戦国:イギリス東インド会社とマラーター同盟
 戦場:インドのデカン地方など
デカン地方ヒンドゥー王朝マラーター王国(Maratha Empire, 1674-1849)を中心としたマラーター同盟で同国財務大臣ナーナー・ファドナヴィース(Nana Fadnavis,1742-1800)と、同国第6代宰相ラグナート・ラーオ(Raghunath Rao, 1734-在位
インドの地図

インド 1957/4/1 発行
1773-1774-1783)との間で争いが起こり、イギリスが後者の宰相に加担して第一次マラーター戦争が勃発。マラーター王国マーダヴ・ラーオ王(Madhavrao I, 1745-1772/11/18)が、1770/12月にマイソール王国へ遠征中に結核の症状が悪化、1772/6月に講和条約を結んで撤退後に亡くなり、弟のナーラーヤン・ラーオが宰相位を継ぎ、ラグナート・ラーオが補佐役となった。だが、ラグナートは宰相位への野望を抱いており、宰相と次第に対立するようになり、1773/8月に宰相は暗殺された。その後、ラグナート補佐役は宰相となったが、翌1774/4月にナーラーヤンの息子マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンが生まれると、財務大臣のナーナー・ファドナヴィースにその地位を追われ、マーダヴ・ラーオが新たな宰相となった。しかし、諦めきれないラグナート・ラーオは宰相位を奪還するため、1775/3月にイギリスとスーラト条約を締結し、マーダヴ・ラーオを擁するナーナー・ファドナヴィースに対抗しようとした。これが第一次マラーター戦争と呼ばれる長い戦い。
第一次マラーター戦争は、マラーター諸侯マハーダージー・シンディアらの活躍によりマーダヴ・ラーオ側の方が優勢であったが、一時ラグナート・ラーオの側が優勢になることがあり、不利になったナーナー・ファドナヴィースは1780/2月にマイソール王国のハイダル・アリーと同盟を結んだ。1780/5月にハイダル・アリーはこの盟約に従いイギリスのマドラスを目指して進軍し、第二次マイソール戦争が勃発。1781年に入ると、イギリス軍とマハーダージー・シンディアの軍勢との争いは膠着状態になった。イギリス軍はマラーター軍の夜襲や物資供給の補給路が脅かされるなど、次第に疲弊していった。1781/7/1に、マハーダージー・シンディアのマラーター軍勢は、イギリス軍に決定的な勝利を収めた。また、それと同時期にイギリスが行っていたコンカン地方の侵略もイギリスの敗北に終わった。ベンガル総督のウォーレン・ヘースティングズは、ミュール大佐を派遣し、マハーダージー・シンディアとの和平交渉を行うように命じた。こうして、1782/5/17にイギリスとマハーダージーとの間でサルバイ条約が締結され、講和により、イギリスはマーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンを宰相と認めること、ラグナート・ラーオに年金をあてがうこと、サルセットとバルーチ以外の戦争で獲得した領土をすべてマラーター王国に返還することが定められた。これにより、第一次マラーター戦争はマラーター側の勝利に終わったが、ハイダル・アリーとの盟約に違反するものであり、両国の関係は再び悪化した。
・マラーター戦争
 (Anglo-Maratha Wars)
マラーター戦争は、イギリス東インド会社とインドの大部分を支配していたマラーター同盟(マラーター王国)との間に起った三次にわたる戦争。
第一次マラーター戦争(1775-1782)
第二次マラーター戦争(1803-1805)
第三次マラーター戦争(1817- 1818)
イギリスはこの戦争でマラーター同盟を完全に解体させ、デカンおよび中央インドを制圧した。
戦争の結果として、マラーター王国とマラーター諸侯はイギリスに従属する藩王国となった。
参考HP:〜
インドの地図(1823、赤色:イギリス領、青色:藩王国領)

・第二次マイソール戦争(引分)
 (2nd Anglo-Mysore War, 1780〜1784)(戦争前へ原状回復)
第二次マイソール戦争は、イギリス東インド会社とマイソール王国支配者マハラジャ(族長)ハイダル・アリー(Hyder Ali, 1720c-1782)との間で南インドのカルナータカ地方において行われた戦争。第一次マイソール戦争後、マイソール王国とイギリスとの間にはこれといった争いは起こっておらず、平和が保たれていた。この間、ハイダル・アリーは国力の増強に努めていた。そこへアメリカ独立戦争の余波が伝わり、1778年にイギリスが
インドの地図

インド 1943 発行
フランスの拠点ポンディシェリーを包囲した(ポンディシェリー包囲戦)ほか、 1779年にイギリスがフランスからケーララ地方の都市マヘ(Mahe, Kerala)を奪った。軍事的にも重要だったこの地がイギリスに奪われたことで、南インドにおけるイギリスの脅威が増し、マイソール王国との対立が再燃した。それに、第一次マイソール戦争で不利になったマラーター王国財務大臣ファドナヴィースは、1780/2/7にマイソール王国のハイダル・アリーと反英で同盟するところとなった。これでマイソール王国・マラーター王国・デカン地方イスラム王朝ニザーム王国(Nizam Dominion(ハイダラーバード王国:Haiderabad State)1724-1948)との間に三者同盟が成立し、ハイダル・アリーはイギリスとの対決姿勢をみせ出征すると、フランスはマイソール王国との同盟関係上、1782年に侯爵カステルナウ総督とサフレン提督を王都ポンディシェリへ派遣して、1782/2/7に仏サフレン艦隊が英ヒューズ艦隊をベンガル湾サドラス沖で破って勝利(サドラスの海戦)。カステルナウ総督とサフレン提督とは、ハイダル・アリー父子に迎え入られるも、ハイダル・アリーは1782/12/1にチットゥール近郊ナーラーヤナラーヤンペートの陣営で陣没した。その後を継いで軍総司令官になったのは聡明な人物で「マイソールの虎」と呼ばれた息子ティプー・スルタンで、戦闘を有利に進め、緒戦でマイソール軍が勝利し、イギリス軍は敗北した。1783年にイギリス軍マドラス指揮官がフランス支配下のカッダロールを、1783/6/7に包囲(カッダロール包囲戦)したので、サフレン艦隊はカッダロールの包囲を解くために進撃してカッダロール沖で、1783/6/20にサフレン艦隊とヒューズ艦隊が激突(カッダロールの海戦)し、フランス艦隊がまたしても勝利。包囲のイギリス軍は平和条約で撤退。1783/9/3にアメリカ独立戦争での講和条約であるパリ条約が締結されると、英仏は講和し、南インドにおける英仏間の争いも終わりを告げた。イギリスはフランスに占領地を返還したが、これ以降フランスが南インドにおいて深く関わることは無くなった。
第二次マイソール戦争中、マラーター王国(Maratha Empire、デカン地方のヒンドゥー王朝、1674-1849)は第一次マラーター戦争の講和条約サールバイ条約(Treaty of Salbai, 1782/5/12)をイギリスと結び、戦線を離脱。ニザーム王国も、イギリスからグントゥール県を譲渡することを条件に戦線を離脱して、三者同盟は事実上崩壊して、マイソール側にとっても戦争の続行は不利になった。1784年にイギリスとマイソール王国の双方は講和条約マンガロール条約(Treaty of Mangalore, 1784/3/11)を締結して第二次マイソール戦争は終結し、マンガロールの包囲は解かれ、領土は戦争前の状態に戻されることとなり、ティプー・スルタンは王都シュリーランガパトナへと帰還。
参考HP:〜
マイソール王国の場所地図(緑色、インドの地図)


・ロードアイランドの戦い
 (Battle of Rhode Island、1778/8/29)
 別名:クェーカーヒルの戦い(Battle of Quaker Hill、1778/8/29)
ロードアイランドの戦いは、アメリカ独立戦争の中盤にあたる1778年にジョン・サリバン将軍(John Sullivan, 1740-1795/1/23)の大陸軍(約一万人)が、イギリス軍(約七千人)からロード島(アクィドネック島:Aquidneck Island)の奪還を図った戦闘で、戦闘は決着が着かなかったが、大陸軍はこの島を占領することで、アメリカやフランス艦船の航行のためにナラガンセット湾(Narragansett Bay)を確保しようという目標を諦めねばならなかった。
ロードアイランド(島)の戦い
イギリス軍の上陸

アメリカ独立200年記念
ジャージー 1976 発行
ドーヴェルニュ提督のロードアイランド戦いはこちら
参考HP:〜
ロード島&ナラガンセット湾の場所地図(ロードアイランドは”Newport”の島)
アクィドネック島の場所地図


・インド洋の地図
SULTANATE of OMAN

オマーン 1981/11/23 発行

<参 考>
・ツーロンの海軍美術館にサフレン提督の銅像が有。

参考HP:〜
インドのフランス・イギリスなどの植民地地図

こちらで
サフレン提督
・戦歴(1):オーストリア継承戦争
・戦歴(2):七年戦争(海戦)
・戦歴(4):アメリカ独立革命戦争
世界遺産
富士山日本
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.3/12/4(2021)
スタンプ・メイツ
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