バウンティ号
の反乱物語

ウィリアム・コール甲板長
1789
ボートに追放・ランチを選ぶ、10年服役・引退

大航海物語
イギリス
PITCAIRN ISLANDS
ボートに追放されるコール甲板長たち

1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1989/4/28 発行
バウンティ号

英領ピトケーン 1988/5/9 発行
ロンドン塔
Tower of London

コール甲板長はロンドン生まれだった
イギリス 1980/8/9 発行

ボートで漂流するコールたち

マン島 1989 発行
フィジー水道を抜けるブライ艦長のボート

バウンティ号の反乱200年記念
英領フィジー 1989/4/28 発行
Bounty’s longboat being chased
in Fiji waters

ブライ艦長一行が乗せられたバウンティ号のボートがフィージー水道を通過しました。

ウィリアム・コールはバウンティ号に甲板長として乗り組み、反乱に遭遇して、艦長がボートに追放されるとき、救命艇だったランチを要請し聞き入れられましたので、コールも船に残らず乗り移り、その後の生死を分ける漂流に重要な役割を果たしイギリスに生還できましたが、軍法会議で有罪となりました。
ウィリアム・コール (1761〜1833/3/?)
 William Cole - Boatswain、25才乗組み、71才没。

コールはバウンティ号に乗込むまでのことは定かではありませんが、ロンドン郊外のグリニッチで1761年に生まれたようです。1787年にウィリアム・ブライ艦長が西インド諸島のプランテーションで働く奴隷の安い食料を確保するため、太平洋のタヒチ島から「人手無用で育つ食料の木」と思われていた”パンの木”の苗木を、西インド諸島に運び植林する作戦を命じられました。「パンノキの苗木の輸送作戦」を実施するため南太平洋への航海へ出帆するブライに与えられた船は”バウンティ号”(HMAV Bounty)でした。ブライ艦長は乗組員を募りました。コールはバウンティ号の甲板長に任命されて25才で乗組みました。

1787/12/23にバウンティ号はイギリス・スピツヘッド海峡近くのポーツマス軍港を出帆しました。航海中はブライ艦長が乗組員全員に対して、幾つもの欠点をあげつらっては猛烈に叱責しました。1ヵ月後にブライ艦長の命令でマゼラン海峡ではなく、南アメリカ最南端で「吠える60度」という南極海からの強風で年中荒れ狂っていて、船乗りに恐れられていた難所中の難所のホーン岬Cape Horn)を回航してドレーク海峡を抜けて、太平洋へ出てることになりました。フライヤー航海長の冷静な指導のもとで嵐の中にホーン岬を望見できましたが、おりしもさらなる大嵐が襲いかかりました。ブライ艦長は「進路を見失った」としてドレーク海峡の突破を断念して、喜望峰への転舵を命令しました。喜望峰周りで無事にインド洋へ出ましたが、そのために2ヶ月もの遅れを出したとして、航海中であるにもかかわらず、艦長は航海長のフライヤーを降格し、上級士官の1人クリスチャン1等航海士を副艦長に抜擢しました。1788/3/10にはマシュー・クィンタルがその横柄で反抗的な態度に、ブライ艦長から24回の鞭打ち刑を受けました。その後の航海中も艦長の厳しい態度に、乗組員の多くが不満を抱いていきました。
バウンティ号はさらに西へ帆走して10ヵ月以上の航海の後、1788/10/26にタヒチ島に到着しました。1789年4月までの約半年間を”パンの木”の苗木やその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在しました。その期間中、クリスチャン副長はタヒチの女性と結婚し、その他の多くの乗組員も現地生活を楽しみました。島での約6ヵ月間の生活は水夫たちにしてみれば楽園だったのでした。水夫の多くは短気なブライ艦長と再び航海に出るのをますます嫌うようになりました。3人の水夫が義務を放棄して脱走しようとしたため、ブライ艦長は鞭打ちの刑を科しました。そして”パンの木”の苗木を積み込んだバウンティ号は、1789/4/4にタヒチ島を出帆しました。 タヒチ島

仏領ポリネシア 1986/8/28 発行
1789/4/28にフレンドリー諸島(トンガ)近海に差しかかった時に反乱が起きました。イギリス出帆時から艦長の厳しさに不満を抱いていた乗組員達は、”パンの木”の苗木を積み込んでからの、水の制限により、不満が一気につのりました。クリスチャン副長をそそのかして味方につけ、1789年4月28日早朝に副長と反乱者達が船を乗っ取り、ブライ艦長達を1隻のボートlongboatランチ、救命艇)に押し込めて船から追放しました。当時乗組んでいた46人の内、途中で死亡していた2人を除き、反乱者はクリスチャン副長以下12人でした。ブライ艦長以下19人はボートに乗せられて追放され、反乱に加わらなかった者のうち艦長と行を共にしなかった(ボートに乗れなかったか、直接手は下さなかったが反乱に同調したという説も有)13人は船に残されました。

ブライ艦長は、「コール甲板長とフライヤー航海長は無能で、居ても居なくても良い存在だ」と航海日誌にこきおろろして書いていますが、コール甲板長は、艦長をボートに追放するのは余りにも危険だから、「単に艦長を捕らえてイギリスに戻るだけにしてはどうですか」とクリスチャンをさとして、クリスチャンが反乱を続け船を乗っ取るのを思い留まらせようとしました。しかし、クリスチャンは頑として聞き入れませんでした。
そして、小型のカッター(cutter)に追放しようとしましたので、コールはカッターは修理が完全ではなくて木がとても悪化してきて腐りかかっているので、ランチ(Launch、open long boat)にしてくれるように頼み、聞き入れられました。コールの忠実な部下だったジェームス・モリソンが「ランチに乗るのは危険だから家族のためにも船に残るべきです」と申し出ましたが、コールは「君に神の祝福がありますように!」と言って、ランチに乗込みました。 ボートで漂流するフライヤーたち

マン島 1989/8/28 発行
ジョン・ハレットが袋の中に入れて持ち出していた「六分儀と航海用テキスト」と艦長が持っていた海中時計が、その後の生死を分ける漂流に重要な役割を果たしました。ブライ艦長が指揮するランチは、六分儀と時計を利用して帆走とオールを漕いで航行しました。ランチでの航海中にコールは、フライヤーと艦長が言い争うのを聞いて、艦長に好意をよせるようになりました。ある時、フライヤーの義弟で16才のティンクラー(Tinkler)候補生がコールに生意気な口をきき無礼な態度をとったので、コールが厳しく叱りつけました。すると、フライヤーがコールをナイフで突き刺そうとしましたが、危うく難を逃れました。 チモール島

ポルトガル領チモール 発行
コールたちは熱帯の暑さの中で、3,500マイル(約5630キロ)の漂流をランチというオープン・ボートを漕ぎ続けるのをやりぬき、トンガ諸島のトフォア島を経由しフィジー水道を抜けて、45日かけてニューギニアとオーストラリアの間の早い潮流の難所トレス海峡を通り、1789/6/12にオランダ領西チモール島にたどり着きました。

約1年後の1790/3/4に艦長とコール甲板長以下15人が英国に生還できました。同年3/15に艦長とコール甲板長たちはイギリスで反乱を報告し、軍法会議にかけられました。
軍法会議中はコールもフライヤーも仲間と同じようにおとなしく忠実に振舞っていました。コールはモリソンの証言によって大いに救われましたが、「10年間の服役」を言いわたされました。服役は軍艦での勤務ということになり、イレシスティブル号(Irresistible)に乗組み、そこで「10年間の服役」となりましたが、2人の息子を下働きにすることを許されて、かなり心地よい10年間を送ったと伝えられています。

1805年に43才で許されて、郷里のグリニッチに帰って安楽な引退生活を送りました。グリニッチ病院(Greenwich Hospita)よりますと、コールは1833/3に71才でグリニッチで安らかに亡くなったと記録されています。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     08/2/17
2層甲板軍艦

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