★スペイン ブラス・ド・レゾ提督
1740
イギリスのカルタヘナ攻撃に勝利
大航海物語★

ESPANA
ブラス・ド・レゾ

スペイン 1961/10/12 発行

REPUBLICA DE GUINEA ECUATORIAL
1739年 ポルト・ベロの海戦 勝利

赤道ギニア 1975 発行

フロリダ→



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ジャマイカ島→



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エルサルバドル→
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コスタ・リカ→
パナマ→
ダリエン湾→
ポルトベロ(赤丸)→

カリブ海沿岸の地図

ジャマイカ 1992 発行
←イスパニョーラ島
←プエルトリコ島






←カルタヘナ(赤丸)
←ギヤナ
←南米大陸


ドン・ブラス・ド・レゾ提督は、片目、片手、片足で、時代こそ違いますが、イギリスの片目、片腕のホレイショ・ネルソン提督と好対照の海軍々人で、大西洋せましと活躍しました。
ドン・ブラス・ド・レゾ (1687〜1741/9/7)
 Don Blas de Lezo y Olavarrieta

ブラス・ド・レゾは1687年スペイン・ギプスコア(Guipuzcoa)県パサジェス(Pasajes)で生れました。1701年14才で少尉候補生としてフランス海軍に入隊しました。1704年には17才でスペイン承継戦争(Succession Wars、1701-1713)に従軍して、ジブラルタルのヴェルツ・マラガ(Velez-Malaga,Gilbraltar)の海戦でイギリス・オランダ連合艦隊と戦い、左足を失いました。その数年後のフランスのツーロン港サンタ・キャサリン城の防御戦では海軍ルテノンとして従軍し、左目を失いました。1711年にはアンドレ・ペズ(Andres Pez)の命での海軍勤務をこなしました。1713年には25才で艦長に昇進し、1714年第二回バルセロナ包囲攻撃戦の最中に、負傷した右腕をバルセロナでの外科手術で切断しました。この時、彼は1隻のフリゲート艦で11隻のイギリスの私掠船を拿捕し、拿捕したイギリスの東インド貿易の私掠船”スタンホープ(Stanhope)号”が重武装私掠船の象徴となりました。その年に戦争が終るまでに、彼は少しの栄光(若い士官の中で最も勇敢だったこと)と引き換えに、身体をズタズタに引き裂かれたのでした。

スペイン承継戦争が終った1716年には29才で16門の大砲を備える戦艦ランフランコ(Lanfranco)号の艦長(senior rank of captain )になり、1723年1月16日に南の海の艦隊指揮を任されました。それからの14年間は南米西海岸沿いの海賊船退治の任務に就き、11隻の海賊船を捉え、太平洋岸のイギリス、オランダ海賊を一掃しました。1725年にブラス・ド・レゾはペルーで結婚しました。

1727年40才でイギリスとの戦争が勃発すると、数百万の価値有る積荷を積載していた重装備の6隻のイギリス・ガレオン船と6隻のオランダ・ガレオン船を拿捕しました。南米任務の後、地中海艦隊の司令官の命を受け、1730年スペイン・カディス港に投錨、スペインに帰りました。1731年には6隻の戦艦でイタリイ・ジェノバ共和国へ、200万ペソの支払いを要求しに行きました。しかし、彼らは支払いませんでしたので、街を戦艦で砲撃して一瞬の内に灰にしてしまうと脅かして、金貨で全額を支払わせて、ジェノバを出帆してスペインに帰りました。1732年にはアルジェリアのハッサン湾”オラン”へ54隻で30000人を上陸させて占領し、アルジェリア海賊を一掃し、カディスからイスタンブール迄パトロール任務に就き、海賊の跋扈を阻止し、その後は北アフリカのイスラムのアルジェリア人を降伏させて、スペインとの戦いは高くつくことを思い知らせました。1734年国王が彼を海軍中将に任命しました。

1737年コロンビアのカルタヘナ港(Cartagena)防御のために西インドへ戻りました。今度は再度のイギリスとの戦いで、ヴァーノン提督(Edward Vernon)との戦いとなりました。イギリスはカリブ海方面に120隻の艦船と3万人の軍隊を送りました。1740年にブラス・ド・レゾ提督がそれを阻止するべくカルタヘナ防衛戦で向かい打ちました。18世紀最大の敗戦を英軍は喫しました。イギリスはジョージ・ワシントンの兄弟のローレンス・ワシントン(Lawrence Washington)率いるアメリカ植民地軍2763人とジャマイカ人2000人を使用して、カルタヘナのスペイン軍を攻撃しました。レゾは6000人の軍勢とたった6隻の艦隊、旗艦ガルシア号、サンフェリペ号、サンカルロス号、アフリカ・ドラゴン号、コンキスタドール号で港を守り、非常な劣勢にもかかわらすレゾ提督は22戦を戦い抜き、イギリスに勝利しました。カルタヘナ包囲攻撃の丁度その時、マラリアと伝染病が両陣営に蔓延して、かってないほどの猛威を振るいました。勝ち誇っていたイギリスのヴァーノン提督がスペインのレゾ提督の軍門に下り、レゾ提督は「私は2本の足に勲章を貰ったようだ」とうそぶいたと伝えられています。1739年ヴァーノン提督はパナマのポルトベロ港(Portebelo)を攻略しましたが、カルタヘナと同様にレゾ提督の軍門に下り、1741年イギリスへと空しく帰りました。

スペインの頑強なバスク(Basque)人の彼も、39年にも及ぶ海軍勤務と熱帯勤務での熱病ともあいまって、1741年9月7日に54才で亡くなりましたが、何処に葬られたか不明ですが、カルタヘナだとされています。

・参考HP〜中央アメリカの地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        2007/4/30

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