★ポルトガル ジョアン・ダ・ノーヴァ船長
1501、アセンション島を発見
1502、セントヘレナ島を発見
大航海物語★

PORTUGAL
ポルトガルの航海者ノーヴァ船長

ポルトガル 1990−94 発行
PORTUGAL
ポルトガルからインドへの航海地図

ポルトガル 1969/12/30 発行
Mozambique
ノーヴァ船長の乗船フロー・ド・マー号

Flor do Mar
モザンビーク 1963/12/1 発行

スペイン生れのノーヴァ船長は幼い時にスペイン貴族の内紛でポルトガルに逃れ、長じてポルトガル王室に出仕し、リスボン市長になりましたが、1501年に国王の命で第3次インド遠征艦隊を率いてインドへと出帆し、モッセルベイでアタイデ船長の手紙を発見。翌年に東洋のスパイスや財宝を満載して、ポルトガルに帰港しました。その航海中の往路でアセンション島ファーカー環礁島を発見し、帰路にはセントヘレナ島を発見しました。1505年にアルメイダ提督の第7次インド遠征艦隊にフロードマー号の船長で参加しましたが、帰路に喜望峰付近で水漏れを起こして修理でモザンビークに残留中に、第8次インド遠征艦隊のアルブケルケ将軍の第1艦隊が通りかかり合流し、インドで亡くなりました。
ジョアン・ダ・ノーヴァ・カステリア (1460〜1509/7)
 Joao da Nova Castelia

スペイン人のノーヴァ船長はスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラ南方ガリシヤ地方のマセダ(Castillo de Maceda, Galicia,Spain)で生まれましたので、ガルシア提督(Galician Admiral)と呼ばれました。少年の頃にスペイン貴族の派閥争いの戦いが起こり、彼の家族に命からがらポルトガルへ逃がされました。ポルトガルのマヌエル1世王につかえて、1496年に36才でリスボンの市長になりました。

ノーヴァ船長の大冒険:〜
・1501年(41才)〜第3次インド遠征艦隊を率いてリボンを出帆、アセンション島を発見
・1502年(42才)〜セントヘレナ島を発見、リスボンに帰港
・1505年(45才)〜第7次インド遠征艦隊にフロードマー号の船長で参加
・1506年(46才)〜喜望峰で水漏れして修理でモザンビーク島に残留、
           第8次インド遠征艦隊のアルブケルケ将軍の第1艦隊に合流
・1507年(47才)〜オマーンのマスカットなどを攻撃
・1508年(48才)〜3隻で沿岸警備任務に就くも、コーチンでアルメイダ提督指揮下に入る
・1509年(49才)〜ディウ攻撃戦で勝利、コーチンで没

1500/3/8にはペドロ・カブラルが13隻の大船団でインドへ向けて、ポルトガル・リスボン港を出帆し、嵐に流されて偶然にブラジルを発見しましたが、この艦隊に参加していたバーソロミュー・ディアスはブラジルからインドへ向かう途中の大西洋で嵐に遭遇し、遭難して亡くなりました。この船隊が帰国するより早く、ポルトガルのマヌエル1世は、ジョアン・ダ・ノーヴァ指揮のもと5隻の船隊をインドへ向けて派遣しました。

1501年に第3回インド遠征艦隊5隻の司令官に指名されたノーヴァ船長の艦隊は、1501/3/5〜10に順次ポルトガルのリスボン港を出帆しました。大西洋を航海中にアセンション島(Ascension Island)を発見、投錨しました。

喜望峰を回航後、モッセルベイに到着・上陸してアタイデ船長が水汲み場(Da Gama’s spring)近くのミルクウッドの木(Milkwood tree)に吊り下げて残しておいた古い船乗りのブーツ片方を見つけ、その中からアタイデ船長の手紙を発見しました。滞在中に小さな教会を建設し、そこをヴァケイロス湾(Golfo dos Vaqueiros)と名付けました。ノーヴァ船長が出帆すると、現地人の手によって教会は火を付けられ灰燼に帰して跡かたもなくなりました。 同年にマダガスカル島東方に有るフアン・デ・ノヴァ島(Juan de Nova)を発見(望見)しました。 手紙を発見、1501

シスカイ 1991/5/11 発行

この艦隊はその後インドのカナノールへ直航し十分な積み荷を得ての帰路、1502年にはセントヘレナ島を発見(望見)して、島名はコンスタンティヌス1世(Helena of Constantinople)の母「聖ヘレナ、St. Helena」にちなんで名づけました。インド到着後は東洋産の香料を満載して、無事にポルトガルへ帰国しました。以後インドへの年次航海が実施されるようになりました。

1505年にノーヴァ船長はアルメイダ提督の第7次インド遠征艦隊に、フロードマー号(Flor do Mar)の船長でインドへと航海しました。ノーヴァ船長の提案は初代インド副王アルメイダ提督に受け入れられず、提督(General-Capitain)という階級も許されず、小型の沿岸警備船に乗り換えるようにいわれましたが、それを断り許される代わりに、帰国することになりました。1506/2月にノーヴァ船長は第7次インド遠征艦隊の帰国の第3艦隊2隻と共にインドを出帆。乗船のフロー・ド・マー号が喜望峰で水漏れとなり、モザンビーク島で修理して8ヵ月滞在し、ザンジバル付近でトリスタン・ダ・クーニャ船長の第8次インド遠征艦隊アルブケルケ将軍の第1艦隊に合流しました。

1506年にノーヴァ船長はソコトラ島攻撃に向かうアルブケルケ将軍の艦隊に、フロー・ド・マー号の船長で参加しました。この作戦中にホルムズ攻撃の準備をしていたアルブケルケ将軍の5隻の艦隊に加わっていましたが、物資を集めるために「アラビアに行くようにとの将軍命令を無視して、インドに向かおうとした」という理由で逮捕されましたが、結局は彼が1507/8〜9月にオマーンのカルハット(Qalhat)、マスカット(Muscat)、カルヤート(Qurayyat)に対する湯もう果敢な連続攻撃で示した武勇のために許され、転じて1507/10月アルブケルケ将軍のホルムズ島攻撃(Battle of Hormuz)に従軍を許され、勝利してホルムズを占領しました。

1509/2/3には旗艦フロー・ド・マー号に乗船して、18隻にポルトガル兵1,300人、現地兵400人によるアルメイダ提督のディウ攻撃戦を戦い勝利しました。1509/3月にアルブケルケ将軍がアルメイダ提督に和解の提案を持ちかけましたが、それを知ったノーヴァ船長は他の3人の船長と共に、アルメイダ提督にアルブケルケ将軍との和解を受け付けないように画策しましたが、1509/7月にインドのコーチン(Cochin, India)にて49才で亡くなりました。それはアルメイダ提督がアルブケルケ将軍を逮捕する、丁度2週間前のことでした。その後、アルブケルケ将軍が開放されると、ノーヴァ船長の武勇を惜しんで、丁重な葬儀を執り行ったと伝えられています。

なお、1501年にノーヴァが発見したマダガスカル島東方に有る環礁島は、後年に彼が発見した功績を称えて「フアン・デ・ノーヴァ島 Juan de Nova Island」と名付けられました。面積 4.4 ku で、1897年にフランス領となりました。その後、1965年にファーカー環礁島(Farquhar Atoll)としてイギリス領インド洋地域となり、1976年にセイシェル諸島が独立してセイシェル共和国に編入されました。

フロー・ド・マー号 (フロール・デ・ラ・マー号)、1502-1511
  Flol de la Mar、Large Nau(carrack 400t)、大型ナオ(キャラック)船
  (英:Flower of the Sea、海の花)
フロー・ド・マー号は、1502年にポルトガルの首都リスボン港で造られました。完成するとヴァスコ・ダ・ガマの第4次インド遠征艦隊にノーヴァ船長の指揮のもとで参加し、インドへ行きました。1505/3月にはアルメイダ提督の第7次インド遠征艦隊にノーヴァ船長の指揮のもとで参加してインドへ行き、その帰路に喜望峰で水漏れを起こし、モザンビークで修理しながら残留しました。そこへトリスタン・ダ・クーニャ船長の第8次インド遠征艦隊アルブケルケ将軍の第1艦隊が通りかかり合流しました。1507年にホルムズ征服に出動。1509/2/3には18隻と
フロー・ド・マー号
ポルトガル兵1,300人、現地兵400人によるアルメイダ提督のディウ攻撃戦の旗艦を務めました。1510年にアルブケルケ将軍のゴア征服戦の支援船となり、1511年にはアルブケルケ将軍のマラッカ征服に出動しました。1511/11/20にシャムから金銀財宝を満載しての帰りに、マラッカ海峡のスマトラ島パセ(state of Pase)で大嵐に遭遇して、積荷の金塊60屯もろとも沈没しました。なお、1970年頃にアメリカのトレジャーハンターがフロー・ド・マー号から、財宝を引き上げていますし、同船のレプリカがマレーシアで復元されて、マラッカの海事博物館に使用されています。

参考HP:〜
 ・インド中部の西海岸の地図(カナノール有)
 ・ファン・デ・ノーヴァ島の場所地図(赤丸)
 ・モッセル・ベイの場所場所
 ・アセンション島とセントヘレナ島の場所場所      08/7/25、09/12/31、10/10/10







第3次インド遠征艦隊
1501〜1502
司令官ノーヴァ船長

PORTUGAL
ポルトガルの航海者ノーヴァ船長

ポルトガル 1990−94 発行
MOZAMBIQUE
ポルトガルからインドへの航海地図

ヴァスコ・ダ・ガマ 生誕500年 記念
ポ領モザンビーク 1969/8/29 発行

Mozambique
モザンビーグ島古地図、1572

1569 カモンイス訪問400年 1969
ポルトガル領モザンピーク 1969/6/10 発行
モザンビーグの地図

←モザンビ-グ島
モザンビグ海峡
ポルトガル領モザンビーク 1972/5/25 発行

第3次インド遠征艦隊5隻の編成(船長):司令官ノーヴァ船長
 3th Portuguese India Armada (Nova, 1501-1502)
:〜350人、内80兵
1)司令官ジョアン・ダ・ノーヴァ船長(Joao da Nova)旗艦、王室船、リスボンに帰港
2)フランシスコ・デ・ノヴァイス船長(Francisco de Novais)王室船、リスボンに帰港
3)ディオゴ・バルボサ(Diogo Barbosa)、私掠船( Privately)、リスボンに帰港
  船主:ブラガンザ公(D. Alvaro of Braganza)
4)フェルナン・ヴィネット(Fernao Vinet)、私掠船( Privately)、リスボンに帰港
  船主:フィレンツェ商人組合(Florentine Marchionni consortium)
5)補給船(supply ship)、途中で火災焼失(burnt)

・第3次インド遠征艦隊の航海日誌より:〜
1501年
03/05、リスボンのテージョ川河口を5隻が出帆
05月、ブラジルのペルナンブーコ州サン・オーガスチン岬
    (Cabo de St. Augustine)で飲料水を補給後、
    大西洋を横断中に島を発見、イルハ・ダ・コンセイサン島
    (ilha da Conceicao)と命名、投錨(1503年アルフォンソ・
    アルバカーキが再発見し、その日がキリストの昇天日
    (Ascension Day 5/21)だったのでアセンション島と改名)
07/07、喜望峰を回航後、
     モッセルベイ着、
     第2次艦隊のアタイデ船長の手紙を発見、
アセンション島
08月上旬、ソファラを経てモザンビ−グ島に到着、
     ケニヤのモンバサを経てインド洋を横断中に
     大嵐で補給船を失い(焼失)、マダガスカル島
     東方に流されてフアン・デ・ノヴァ島を発見
09月、インド西岸のマリンディに到着
11月、南ゴアのアンジャディプ島(Anjadip Island)に到着
    ケーララ州エジマラ山(Ezhimala Hill、Kannur)近くで
    イスラム商船2隻を捕え積荷を奪う
    コーチンへ向かう途中で、カリカット王の持ち船と
    2隻の商船を捕え積荷を奪う
ファーカー環礁島
12月下旬、カリカットに到着、付近で海賊まがいで
     インドの香料や産物を船に積み込んで、出帆
12/31、カリカット王国の大型船40隻、小型船(パラウス船:paraus、
     ザンブクス船:zambuks)180隻に兵7,000人が追撃、攻撃、
     ノーヴァ艦隊4隻が猛烈な砲撃で応戦、
     ポルトガルの優れた大砲と砲術で、2日間の海戦で
     大型船4隻と小型船12隻を撃沈、
     その他の多数の船に損傷を与えて、
     カナノールの海戦(Battle of Cananore)に勝利
欧州16世紀頃の大砲と砲弾

クリストファーネヴィスアンギラ1970発行
1502年
01/02、カリカット船隊が散りじりになって退却、
     このカナノールの海戦はポルトガル艦隊の威力を見せつけ、
     その知らせが遠くイタリアのヴェネツィアにも届きました
     その後、ノーヴァ艦隊はインド東岸を南下航海、セイロン島
     コロンボに上陸という説もありますが定かではありませんが、
     香料など東洋の産物を積み込んで、インド洋を西へと航海
05/21、セントヘレナ島を発見、命名、現ジェームスタウンの所に上陸
     セントヘレナ島はポルトガル船の補給に使用されましたが、
     1588年にイギリスのキャヴェンディシュ船長が再発見する
セントヘレナ島の古地図
     までの80年以上も秘密にされました
09/11、リスボンに4隻が帰港

参考HP:〜
 ・アラビア海の地図
 ・セーシェル諸島の地図(マダガスカル島の北方にファーカー環礁島群が有)
 ・アセンション島の地図
 ・セントヘレナ島の地図(Jamestown有)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       10/11/11

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