オーストラリアの探検
イギリス人のオーストラリア殖民
Australia
オーストラリアの地図と現在の国旗

オーストラリア 1981/1/21 発行
テラ・アウストラリスの探検航海
1597年の「南太平洋の古地図
New Guinea

Terra Australis




Solomon Islands
スペインで発刊 (Witfliet 1597)
英領ソロモン諸島 1981/3/23 発行

アーサー・フィリップ初代NSW総督
ジョン・ハンター第2代NSW総督

フィリップ・キング第3代NSW総督
ウィリアム・ブライ第4代NSW総督とオーストラリ付近の地図

デイヴィット・コリンズ ウィリアム・パターソン ジョン・ショートランド ジョン・フォレスト
タスマニア初代南部副総督 タスマニア初代北部副総督 NSW裁判官 初代西オーストラリア首相

1570年のオルテリュウスの世界地図に描かれた「未知の南方大陸



ジパング







Terra Australis
  Incognita

「未知の南方大陸」
1522  マゼランの世界一周航海480年記念  2002
フィリピン 2002 発行

イギリス人のオーストラリア殖民
17世紀に入ると、ヨーロッパの探検家が「南方大陸」(Great Southern Continent)の噂を聞きつけ、1587年のメルカトル地図に「メガラニカ」として、また1570年のオルテリュウスの世界地図には「未知の南方大陸」”テラ・アウストラリス・インコグニタ”(Terra Australis Incognita、南方にある未知の大地)として描かれているし、そして1597年にスペインのウィットフィールト(Witfliet)が発刊した南太平洋の古地図には”TERRA AUSTRALIS”として描かれている、「未知の南方大陸」の発見のため、次々と南方へ大航海しましたが、なかなか見つかりませんでしたので、「未知の南方大陸」(Unknown Great Southern Continent)と呼ばれるようになり、ついに「幻の南方大陸」(Southern Continent of vision)となっていました。そこへ太平洋の東端のペルーからキロス船長トレス船長が「幻の南方大陸」を探しに大航海してきました。トレス船長はトレス海峡を発見しましたが豪州の北端を望見して素通りしてしまいました。キロス船長に至ってはニューヘブリデス諸島のエスピリトゥ・サント島に到達して、そこをテラ・アウストラリスと誤認してしまいました。

最初にオーストラリア大陸に近づいた(発見ではない)のは、オランダのタスマン船長でした。タスマン船長は「テラ・アウストラリス」(Terra Australis)を求めて、モーリシャス島から東への探検航海を続けてタスマニア島へ到達、オランダ東インド総督の名に因んで”ヴァン・ディーメンス・ラント”(Van Diemen's Land)と命名し、さらにニュージランドへと大航海して、そこをスターテンランド(Staten Land)と命名してからバタビアへと帰って行きました。その後、イギリスではニューホランド(新オランダ、New Holland)と呼んでいましたが、17世紀末の1699年にダンピール船長がタスマンの地図で陸地を求めて西オーストラリア(シャーク湾)に到達しましたが、大陸とは気がつかずにチモール島へと北上してしまいました。18世紀も後半になった1770年に、イギリスの探検家クック船長が東オーストラリアのシドニー郊外ボタニー湾に上陸し、東海岸一帯を「ニュー・サウス・ウェールズ」(New South Weles(NSW)、新南ウェールズ)と命名、イギリス領とすることを宣言しました。イギリスはこのニューサウスウェールズを囚人流刑植民地とすることを決定し、総督アーサー・フィリップ率いる流刑船団がシドニー・コーヴ(現:ポート・ジャックソン)に、1788/1/26に上陸して「ニューサウスウェールズ植民地政府」(Goverment of penal colony of NSW、新南ウェールズ流刑植民地政府)が成立しました。数万年に渡る現地人アボリジニの大陸占有は、白人によるオーストラリア支配によって、この時点で終わりを告げ、アボリジニは王室領不法占拠者として、奴隷にされたり、殺されたり、ヨーロッパから持ち込まれた伝染病に感染したりして、急速にその人口を減らし滅亡していきました。

現在「1/26」は”オーストラリア・デー”(Australia Day)として建国記念日になっています(1/21説有)。1802年にフリンダース船長がオーストラリアを一周航海し、詳しい海図を作成して「オーストラリア」と名付けることを提案し、1824年の英国海軍法で”Australia, オーストラリア”が正式にこの大陸の名前となりました。

1788年にはノーフォーク島の植民地化を決定して、フィリップ・キング副総督が同島でNSWの衛星植民地の建設に着手しました。そして1790年にシドニーとノーフォーク島間の輸送任務に就航していたシリウス号がノーフォーク島で遭難、沈没しました。

1803年にはイギリスはタスマニア島の植民地化を宣言し、1804年に、同島南部にはコリンズ副総督がNSWの衛星植民地ホバートを、同島北部にはパターソン副総督がNSWの衛星植民地ローンセストンを流刑者と自由移民とで建設しました。やがて、その数も増えていきました。

1790年6月に第2船団6隻が、1791年7月から10月にかけて第3船団10隻が到着し、徐々に開発が進められました。この過程で、入植者が現地人アボリジニを襲撃したり、逆にアボリジニが入植者を殺害するといった事件が発生しました。入植開始時に、治安維持のため囚人らと共に来た「ニュー・サウス・ウェールズ軍団」(New South Wales Corps)の将校達は、公有地を私有化した上、富裕層と結んで船荷の購入を独占しました。未だ必需品を自給できない当時において、彼らは輸入貿易を押さえることにより利益を独占しました。また、通貨が普及していなかったことを利用し、輸入したラム酒を通貨の代わりとして巨利を得ました。イギリスはエマンシピスト(刑期を終えた囚人)や自由移民に若干の土地を無償供与し、独立自営農民とする社会の建設を企図していましたが、その目論見は早くも崩れ、富の偏りが進行しました。これを是正しようとした総督は富裕層と対立し、その座を追われることとなりました。

1806年に総督に着任したウィリアム・ブライは、ニュー・サウス・ウェールズ軍団の専横を断つべく、大鉈を振るいました。それは、軍団の収入源のラム酒を決済手段として使用することを禁じました。しかし、軍団の元将校ジョン・マッカーサー(John Macarthur) ら現地の有力者がこれに反発。ニュー・サウス・ウェールズ軍団も同調。1808/1月にジョージ・ジョンストン少佐率いるニュー・サウス・ウェールズ軍団は総督府を襲撃し、拘束したブライを1年余りにわたって幽閉しました。これが「ラム酒の反乱」(Rum Rebellion)なのです。副総督を自称したジョンストン少佐は、同年7月まで植民地の実権を掌握。その後も政権は反乱者側の手にありましたが、イギリス本国から派遣されたマックワイアー総督(Lachlan Macquarie)が1810年に着任して、事態は収まりました。ジョンストン少佐とマッカーサーは本国で軍法会議に掛けられ、マッカーサーは事実上の無罪とされましたが、ジョンストン少佐は官職を剥奪され、ニュー・サウス・ウェールズ軍団は本国に召還されました。以後マックワイアー総督は、決済手段としての通貨の流通を図ると共に、病院や道路、銀行の建設を推進して生活環境の向上に務めました。

入植当初のイギリス領は大陸東部、すなわち東海岸から東経135度線に至る地域や周辺の島々でしたが、1825年に東経129度まで拡張され、1827年に全大陸が植民地化されました。ジョージ・バス船長フリンダース船長 が1795年から行った探検航海調査で、ニュー・サウス・ウェールズ沿岸の地図を作成しました。フリンダーズ船長は地図製作に当たり、古代ギリシア人やローマ人がその存在を信じていた「テラ・アウストラリス・インコグニータ」(Terra Australis Incognita:「南方の未知なる大陸」の意)に因み、「オーストラリア」の名をイギリス海軍省に提案したことは、前述の通りです。。。。。。オーストラリアの探検へ続く

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      10/4/25
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