Tanzania

国連 1984 発行
 切手で綴るアフリカ大陸一周航海シリーズ No.23
タンザニア連合共和国
United Republic of Tanzania

大航海物語
  地図編

TZNZANIA
タンザニアの地図
ルワンダ


ブルンジ



タンガニ|カ湖



コンゴ
ヴィクトリア湖          .

マラウィ湖
タンザニア 1999 発行


ケニヤ







ザンジバル諸島







モザンビ|グ

KENYA UGANDA TANGANYIKA
ケニア・ウガンダ・タンガニカ地域の地図


ウガンダ→

ヴィクトリア湖


タンガニーカ湖
ケニヤ


←タンガニーカ
 (
タンザニア
英領ケニア・ウガンダ・タンガニ-カ 1958/7/30 発行 (200%)
タンザニア東部の地図
タンザニア

モンバサ

←ベンパ島

ザンジバル島
←ダルエスサラーム

マフィア島

←ムトワラ
←デルガド岬

モザンビーク
コモロ諸 マヨ
  1964 ザンジバル革命20年記念 1984
   タンザニア 1984/6/18 発行

  REPUBLIQUE DE GUINEE
  アフリカの地図
KENYA UGANDA TANGANYIKA
キリマンジャロ山
エリザベス女王
ケニア・ウガンダ・タンガニ-カ 1954/4/28 発行

ギニア 1970/2/3 発行


ソマリア
ケニア
タンザニア
モザンビーク
南アフリカ共和国

喜望峰



マダガスカル

UGANDA
タンガニーカ湖
バ|ト
ウガンダ 1989/11/15 発行
KENYA UGANDA TANGANYIKA
ニャッサ湖

英領ケニア・ウガンダ・タンガニ-カ 1935/5/1 発行
NYASALAND
ニャッサ湖


ョ|ジ6
英領ニャッサランド 1945/9/1 発行 (200%)

TANZANIA
ダルエスサラーム港

タンザニア 1965/12/9 発行
タンザニアの鉄道

タンザニア 2006 発行

タンザニア連合共和国
 United Republic of Tanzania, 1964〜
 British Commonwealth of Tanzania, 1961-1964
 旧称:イギリス領タンガニーカ(British Tanganyika, 1945-1961)
     (イギリス領東アフリカ, British East Africa, 1895-1920)
     (ドイツ領東アフリカ(Deutsch-Ostafrika、1885-1918)
面積:94.5万ku(日本の約2.5倍)、人口:4,248万人(2008)、人口増加率:2.9%(2009)、首都:ドドマ(法律上の首都、国会議事堂が有、人口約195万人:2007) (政府官庁があって事実上の首都機能を有し経済面ではダルエスサラーム、人口約288万人:2007)、民族:スクマ族、マコンデ族、チャガ族、ハヤ族等(約130)、言語:スワヒリ語(国語)、英語(公用語)、宗教:イスラム教(約40%)、キリスト教(約40%)、土着宗教(約20%))、GDP:約537億ドル(2008)、1番切手:1964/7/7発行。

・タンザニア略史:〜
7世紀、アラビア半島でイスラム教が成立
10世紀頃迄、アラブ人やペルシア人がキルワ島ザンジバルに渡来し、スワヒリ文明が繁栄
      マフダリ家 (Mahdali) の支配の下で、キルワは東アフリカ沿岸部最大の都市となり、
      その影響力はモザンビークにまで及ぶ
1331年、イブン・バットゥータがキルワ島を訪れる
1498年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ船長がインド航路を開拓
1505年、ポルトガルのアルメイダ提督がキルワ島を占領
1512年、アラブ商人達がポルトガルの手からキルワ島を奪還
1698年、スワヒリ諸都市とオマーン王国の連合軍がポルトガルのスワヒリ支配地域を攻撃、
      ポルトガルは敗れてタンザニアのインド洋海域から撤退
19世紀、オマーン帝国のサイイド・サイードがタンザニアの島嶼部と沿岸地方を勢力圏に置く
1840年、オマーン帝国がザンジバル島に遷都
1861年、ザンジバルが本国のオマーン・スルタン国と分離、ザンジバル・スルタン国となる、
      引き続き香辛料の交易や奴隷貿易で繁栄
19世紀後半、スワヒリ商人ティプ(Tippu Tip,1837-1905)が現コンゴDR東部まで勢力を延ばし
      内陸地域のスワヒリ語の普及の一因となる
      ティップー・ティプはデイヴィッド・リヴィングストンやヘンリー・スタンリーの探険を助ける
1881年、ドイツ領となる、その後に列強によるアフリカ分割が始まる
1885年、カール・ペータースの活動でドイツ東アフリカ会社(1885/4/2-1918)の植民地が認可され、
      ドイツ領東アフリカ(Deutsch-Ostafrika、-1918)となる
      現在のタンザニアの大陸部分(タンガニーカ)、ルワンダ、ブルンジ
1890年、ザンジバルがヘルゴランド・ザンジバル条約でイギリスの保護国となる
1891/7月、ドイツとヘヘ族ムクワワ(Mkwawa、1855-1898/7/19)との戦争が勃発(-1898/7/19)
1905年、海岸からタンガニーカ湖までの鉄道(現:中央鉄道)がダルエスサラームを起点に着工
1905/7月、部族の垣根を越えた最大の反乱となったマジ・マジ反乱が勃発、鎮圧(-1908/7月)
1914年、第一次世界大戦が勃発(-1918)
      第一次世界大戦の東アフリカ戦線ではパウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍
      (Paul Emil von Lettow-Vorbeck、1870-1964)率いる現地人兵士を中心としたゲリラ
      部隊がイギリス軍などを相手にドイツ本国の降伏時まで交戦
      タンザニア中央鉄道が終点キゴマに到達して完成
1918年、第一次世界大戦がドイツの敗北で終結
      ドイツ領東アフリカは解体され、大半はイギリスの委任統治領タンガニーカとなり、東北部
      のルアンダ=ウルンディはベルギーの委任統治領となった。イギリスは東アフリカで4地域
      (ウガンダ、ケニア、タンガニーカ、ザンジバル)を支配することとなり、これらには関税同盟
      が敷かれ、共通通貨東アフリカ・シリングが導入された。中央鉄道には複数の支線が敷設
      され、その一つはヴィクトリア湖のムワンザにまで延長された。

1920年、英国委任統治領となる
1939/9/01、ナチス・ドイツが、9/17にソ連軍がポーランドに侵攻、第2次世界大戦が勃発
1941/12/8、太平洋戦争勃発
      世界大戦が開戦するとイギリス領だった東アフリカ地域からは28万人が動員され、
      タンガニーカからは87,000人が出征。東アフリカ部隊は東アフリカ戦線でイタリア軍と、
      ビルマ戦線で日本軍との戦いを繰り広げ、
      インパール作戦で日本軍が対峙したイギリス軍には多くのアフリカ人が従軍
1945/5/08、ナチス第3帝国ドイツ降伏
1945/8/15、大日本帝国降伏
1945/9/02、第2次世界大戦終結
      世界大戦後は世界的な脱植民地化の潮流の中で
      タンガニーカ・アフリカ人民族同盟(TANU)が次第に支持を集める
1961/12/9、大陸側のタンガニーカがイギリスの合意のもと平和的に独立(ニエレレ首相)
1962年、共和制移行(ジュリウス・ニエレレ大統領 Julius Kambarage Nyerere, 1922-1999)
1963年、ザンジバル王国も主権を獲得して独立
1964/01/12、ザンジバルの武装勢力が軍事クーデターで王政を打倒、ザンジバル国王は亡命、
      アラブ人排斥の流血事態中に、ザンジバル人民共和国が成立、100日足らずで消滅
1964/06/24、タンガニーカ・ザンジバル両国はニエレレ大統領の汎アフリカ主義の精神下で
      連合してタンガニーカ・ザンジバル連合共和国として統合
1964/10/29、かつて繁栄したアザニア文化の名称を複合してタンザニア連合共和国に改称
      連合共和国の初代ニエレレ大統領はスワヒリ語を公用語とする。モザンビーク独立戦争
      が始まると、エドゥアルド・モンドラーネ議長の指導するモザンビーク解放戦線(FRELIMO)
      を支援し解放区を提供。この時にタンザニアは”FRELIMO”の他、ナミビアの南西アフリカ
      人民機構(SWAPO)やジンバブエのジンバブエ=アフリカ人民族同(ZANU)を支援
1967年、アルーシャ宣言以降ウジャマー社会主義を採用して社会主義の建設を目指す、
      対外的には中華人民共和国との関係を深め、アフリカ諸国との関係においても
      白人支配を続ける南アフリカ共和国やローデシア、ポルトガルと敵対
1970年代、旱魃による農業の衰退や、ウジャマー村の建設の失敗が各地で報告され、
      経済面でウジャマー社会主義の失敗が明らかになる
1971年、ウガンダのオボテ大統領がイディ・アミンのクーデターで追放されて以来、ウガンダと対立
1977年、それまで別組織のタンガニーカ・アフリカ人民族同盟(TANU)とアフロ・シラジ党(ASP)が
      統合、統一政党としてのタンザニア革命党が成立
1978年、ウガンダのアミン大統領がタンザニアに侵攻するも撃退、タンザニア軍はカンパラを攻略
      アミン失脚の一因となる(タンザニア・ウガンダ戦争)。こうした政策でタンザニアは
      アフリカ内外で第三世界を指導する国家の一角としての信望を集める
1980年代、イラン革命での第2次石油危機の影響もあって経済の衰退は深刻化、
      日用品や飲料水の不足に起因する国民の不満が高まる
1985/11月、ニエレレ大統領が引退を発表、
      後任には与党タンザニア革命党からザンジバル出身のアリ・ハッサン・ムウィニが就任、
      ムウィニ大統領の下でIMFの勧告を受け入れるなど経済の自由化が進められる
1990年、ムウィニ大統領が再選
1994年、民主化した南アフリカ共和国からの投資が盛んに行われ、経済は復興を遂げる
1995年、与党タンザニア革命党から就任したベンジャミン・ウィリアム・ムカパ大統領の選出
1996年、立法府の議事堂が法律上の新首都ドドマに移転、
      その他の政府官庁は旧首都ダルエスサラームに有
2000年、ムカパ大統領が再選
2005年、キクウェテ大統領が選出される
2005年、与党タンザニア革命党からジャカヤ・キクウェテが大統領に就任
2010年、キクウェテ大統領が再選。

タンザニアの地方行政区分
 26(Regions)のミコア (Mkoa) と呼ばれる地方(州)と州都(Headquarters)
   ※2019年:31=26+5ザンジバル。
No. (Regions) 州都 (Capital) Memo
・タンガニーカ (Tanganyika) or 本土 (Mainland)
1 アルーシャ Arusha アルーシャ
2 ダルエスサラーム Dar es Salaam ダルエスサラーム 旧首都
3 ドドマ Dodoma ドドマ 首都
4 イリンガ Iringa イリンガ
5 カゲラ Kagera ブコバ Bukoba
6 キゴマ Kigoma キゴマ
7 キリマンジャロ Kilimanjaro モシ Moshi
8 リンディ Lindi リンディ
9 マニャラ Manyara ババティ Babati
10 マラ Mara ムソマ Musoma
11 ムベヤ Mbeya ムベヤ
12 モロゴロ Morogoro モロゴロ
13 ムトワラ Mtwara ムトワラ
14 ムワンザ Mwanza ムワンザ
15 プワニ Pwani キバハ Kibaha
16 ルクワ Rukwa スンバワンガ Sumbawanga
17 ルヴマ Ruvuma ソンゲア Songea
18 シニャンガ Shinyanga シニャンガ
19 シンギダ Singida シンギダ
20 タボーラ Tabora タボーラ
21 タンガ Tanga タンガ
22 ソングウェ Songwe ヴワワ Vwawa 2016 ムベヤ州より新設
23 シミユ Simiyu バリアディ Bariadi 2012 シニャンガ州東部
24 ゲイタ Geita ゲイタ 2012 ムワンザ、シニャンガ両州西
25 ンジョンベ Njombe ンジョンベ 2012 イリンガ州南部
26 カタヴィ Katavi ムパンダ Mpanda 2012 ルクワ州北部
・ザンジバル諸島 (Zanzi bar)
1 ペンバ北部州 Pemba North ウェテ Wete
2 ペンバ南部州 Pemba South 南ムコアニ South Mkoani
3 中部・南部 Zanzibar Central/South コアニ Koani
4 北部州 Zanzibar North ムココトニ Mkokotoni
5 都市部・西部州 Zanzibar Urban/West ザンジバル Zanzibar
ペンバ島とザンジバル島にある5州はザンジバル自治政府を構成。

<タンザニアのユネスコ世界遺産>:〜7件
・文化遺産
 ・キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群、(1981)
  (Ruins of Kilwa Kisiwani and Ruins of Songo Mnara)
   キルワ・キシワニ島にある大モスク跡など
 ・ザンジバル島のストーン・タウン、(2000)
  (Stone Town of Zanzibar)
 ・コンドアの岩絵遺跡群、(2006)
  (Kondoa Rock-Art Sites)
   ドドマ州コンドア地区にある洞窟壁画群
・自然遺産
 ・セレンゲティ国立公園、(1981)
  (Serengeti National Park)
 ・セルース猟獣保護区、(1982)
  (Selous Game Reserve)
 ・キリマンジャロ国立公園、(1987)
  (Kilimanjaro National Park)
  キリマンジャロ・コーヒーが標高1,500m〜2,500m付近プランテーションで栽培
・複合遺産
 ・ンゴロンゴロ保全地域、(1979、2010)
  (Ngorongoro Conservation Area)。

参考HP:〜
キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群の場所地図 (世界遺産)
ザンジバル島のストーン・タウンの場所地図 (世界遺産)
セレンゲティ国立公園の場所地図 (世界遺産)
セルース猟獣保護区の場所地図 (世界遺産)
キリマンジャロ国立公園の場所地図 (世界遺産)
ンゴロンゴロ保全地域の場所地図 (世界遺産)
タンザニアの国立公園の場所地図 (国立公園)

<タンザニアの鉄道>
タンザン鉄道
 (Tanzania-Zambia Railway)
 タンザニアのダルエスサラーム〜(トゥンドゥマ 969.6km)
 〜ザンビアのカピリ・ムポシ、全長 1,860km
タンザニアの鉄道のタンザン鉄道は、ザンビアの銅を輸出するため、ザンビアの大統領が訪中して、その援助を取り付けて、中国の援助で建設されました。ザンビアはそれまで、ジンバブエ経由で南アフリカの港湾から輸出していましたが、ジンバブエがアパルトヘイト政策を施行したので、国連による経済封鎖が実施され、その結果、ザンビアからの銅の輸出ができなくなっていました。1976/7/14にタンザン鉄道が完成して、ザンビアの銅の輸出ができるようになりました。詳しくはザンビア鉄道を参照。
南部アフリカ開発共同体9国の場所地図

1980南部アフリカ開発調整会議5年記念1985
タンザニア 1985 発行

参考HP:〜
タンザニアの鉄道の地図 (概略)
タンザニア鉄道の地図 (タンザニアの国内路線図、拡大有)

リチャード・バートン卿 (1821-1890)
  Sir Richard Burton

サー・リチャード・フランシス・バートン(Sir Richard Francis Burton, 1821-1890)は。当時は超有名人で没後「アラビアン・ナイト」(千夜一夜物語)の翻訳で知られている19世紀のイギリスを代表する冒険家で、デヴォン州トーキーで生まれ、3才から父が気管支喘息だったので、それを和らげる乾燥地を求めて、フランス、イタリアの各地を一家で移りながら成長。1840年にオックスフォード大学に入学するも、飲酒や決闘といった問題行動を繰り返し2年で退学。父親の勧めで
サー・リチャード・バートン

タンガニーカ湖
インド駐屯軍の将校になり6月に出発、10月にボンベイに到着。各地に赴任し、そこで植民地支配に対するインド人の不満をみてイギリス当局に警告したが相手にされず、1850年に帰国。王立地理協会から援助を受け1853年に中東に旅立ち、メッカに巡礼のため巡礼者に変装して異教徒と見破られずに成功。生還した白人は数少なかったので有名になる。1854年に東インド会社の援助で(現在のエチオピアの東部)禁断の町ハラールに初の白人として到着。十日間滞在した後、ソマリアのベルベラで300人ほどの現地民に襲われ重傷を負い(現地民が投げた槍が左頬から右上顎に貫通。現地を逃れたあと引き抜いたが、左頬の傷跡は一生残る)帰国。クリミア戦争に従軍し、オスマン帝国の不正規軍の隊長を務める。1857年に東アフリカのナイル川の源流を探す旅を友人の探検家ジョン・ハニング・スピークとともに加わり苦難の末、1858年にタンガニーカ湖を「発見」した。これこそが源流だとバートンは主張したがスピークは納得せずにさらに探検してヴィクトリア湖を発見。これこそ本物だと考えるようになる。二人で帰国しようとするが、途中のアデンでバートンは熱病を発症。一足先に帰国したスピークは、約束に反して単独で成果を公表したために両者の関係が悪化。1860年に北米大陸横断にでかけハリファックス(Halifax)はカナダ・ノバスコシア州の州都)から出発しカナダ東部〜サンフランシスコ〜パナマ地峡までの前人未到の地を調査。そこでインディアンと出会いモルモン教の中心地であるソルトレイクシティ(Salt Lake City)アメリカ合衆国ユタ州の州都)を訪れて好意的な報告をする。
カリブ海の米領ヴァージン諸島セントトマス島経由で帰国。翌年に10年前に知り合った敬虔なカトリック教徒イザベル・アランデルと結婚するも、スペイン領西アフリカの領事に任命され単身赴任。 ダホメ王国を訪問して王に人身御供と奴隷貿易の禁止をさせようと説得するも、歓迎されたが目的を果たせず。かねてから論争していたスピークと決着をつけるために1865年に開かれた英国学術教会の総会で討論しようとするも、前日に銃の暴発(自殺説有)でスピークが亡くなり、そのことにショックをうけたものの翌年にブラジルの駐サントス領事に任命され渡航。奥地や南米各国を探検。1869年にはシリアの駐ダマスカス領事に任命され再び渡航。 そこでも辺境を探検。本人とは無関係の宗派紛争とのからみで職を解任され帰国。このときの経験をもとに執筆した文章は、反ユダヤ主義だとして後世まで非難される。その後、駐トリエステ領事として、1873年に赴任し亡くなるまで務める。インドや西アフリカを再訪し1886年にヴィクトリア女王から爵位(ナイト)を受領、以後は「サー」の称号を用いる。晩年は「アラビアン・ナイト」の翻訳して過ごし、1890年に心臓発作で危篤状態になり妻の勧めでカトリックに改宗してから(その場にいた姪は否定)亡くなったと伝えられている。 爵位の親授式

英領ヴァ−ジン諸島 1980 発行
タンガニーカ湖
  Lake Tanganyika

タンガニーカ湖はタンザニア西端にある淡水湖。タンザニア、ザンビア、コンゴ民主共和国、ブルンジに面し、海抜773mに有。東西40〜50km、南北650kmに細長くのびる。面積は32,900kuで、アフリカで2位、世界で5位。深さは平均水深570m、最大水深1,471m、アフリカで1位、世界で2位。周囲は1,900km。バイカル湖に次ぐ世界で2番目に古い古代湖(推定2000万年)。アフリカの大地溝帯・グレート・リフト・バレーによって形成され、地溝帯内にある最大の湖で、西リフト・バレー
タンガニーカ湖
内に有。非常に深いことなどから湖水の上下循環がきわめて悪く、深層の水は流動せず、化石水と呼ばれる貧酸素水塊。集水域は約231,000kuで、主要な流入河川は、標高1500mのキブ湖(Lake Kivu)コンゴ領から標高770mのタンガニーカ湖北岸に流入するルジジ川(Ruzizi River 117km)と、タンザニアで2番目に大きく、タンガニーカ東岸に流入するマラガラシ川(Malagarasi River 450km)で、この他にも無数の小河川が湖に注ぎ込んでいる。一方、流出河川は西側にあるルクガ川(Lukuga River 320km)のみであるため、湖水の滞留時間が非常に長く(1000年にも及ぶといわれる)、その90%以上は蒸発により失われるとされる。ルクガ川は下流でコンゴ川(Congo River 4,371km)に合流している。そのため、水系としてはコンゴ川水系に属する。

ニャッサ湖 (マラウイ湖)
  Lake Nyasa
 (Lake Malawi
マラウイ領のマラウイ湖は、タンザニア領とモザンビーク領ではニャッサ湖 と呼ばれるアフリカ東南部にある湖で、アフリカ東部を縦断する大地溝帯(グレート・リフト・バレー、Great Rift Valley)の南端部に有。長さ560km、幅は最大で75kmに達し、面積は鹿児島県と沖縄県を除いた九州に匹敵する29,600 ku。モザンビーク、マラウイ、タンザニアの国境となっている。湖からはシーレ川(Shire River 420km)が流れ出してザンベジ川(Zambezi River 2,750km)に注いでいる。湖に注ぐ川のうち最大のものはルフフ川(Ruhuhu River 160km)である。湖の表面積の0.3%にあたる
ニャッサ湖
南端部がマラウイ湖国立公園に指定されており、この部分はユネスコの世界遺産にも登録されている。湖の領有権とからんで湖の名称をめぐる論争が有。ヨーロッパ人の探検は最初にマラウイ湖(ニャッサ湖)に到達したヨーロッパ人は1859年にこの地一帯を探検したスコットランド人の探検家・宣教師デイヴィッド・リヴィングストンで、ヤオ族の呼び名に因んでニャッサ湖と命名。そしてニャッサ湖を囲む一帯はイギリスが領有を主張し、ニャッサランド植民地が成立。モザンビークを支配するポルトガルが湖の東岸を植民地化して、その沖にあるリコマ島 (Likoma) とチズムル島 (Chizumulu)は対岸のニャッサランドから来たスコットランド人宣教師が植民地化してニャッサランドに編入。それでこれらの島は現在はモザンビークの水域内のマラウイ飛び地領。1914年に第一次世界大戦(-1918)の開戦と共にアフリカ戦線で戦闘が勃発、マラウイ湖は水上戦の舞台となり、開戦の報に接したイギリス艦がドイツ領東アフリカ領内の水面でドイツ艦を撃沈。

ダルエスサラーム
  Dar es Salaam

ダルエスサラームはタンザニア最大の都市で、以前の首都。ダルエスサラーム州の州都。インド洋に面した港町。通称ダール。現在の法律上の首都はドドマで、実質的な首都機能は経済の中心地となっているダルエスサラームに有。人口約320万人(2009)。鉄道など交通の中心地で、ザンジバル他へのフェリーが発着。気候は熱帯性で海岸のため湿気が多く、最高気温は年間を通じ30℃前後、最低気温は20℃前後。降雨量は1年に1100mm。1865年もしくは
ダルエスサラーム港
1866年に、対岸にあたるインド洋上の島ザンジバル島を支配するザンジバル・スルタン国(オマーン出身のアラブ人王朝ブーサイード朝)のスルタン、マージド・ビン・サイイドが建設を始め、離宮を置き、ダルエスサラーム(平和の地)と命名。マージドが農業・商業の発展のためアラブ商人やインド商人を居住させる。1870年のマージド没後に一時的に寂れるも、1887年にドイツが進出し、1895年、ドイツ領東アフリカの首都がバガモヨから移され、東アフリカ・インド洋地域における基地となる。第1次世界大戦後はダルエスサラームを含むドイツ領東アフリカがイギリス委任統治領タンガニーカとなり、イギリスによりダルエスサラームはタンガニーカの政治・経済の中心都市となる。これにより、他のイギリス支配地域と同様に、ダルエスサラームにもインドから数多くの移住者を受け入れることとなる。第2次世界大戦後、スワヒリ系ムスリム住民を中心とした人々によるタンガニーカの独立を目指す運動の中心地となり、1961年にタンガニーカが独立。1965年にタンガニーカ共和国がザンジバルと合邦してタンザニア連合共和国が成立するとダルエスサラームが首都となる。1973年に法律上の首都はタンザニア内陸部のドドマに遷都。それに伴い国会がドドマに移転されたものの、官公庁や中央銀行をはじめとする主要な機関のほとんどが現在もダルエスサラームに残っているため、首都機能を担う都市は実質的にダルエスサラームであると見なされている。なお、人口増加が著しく、2050年に1,597万人、2075年に3,749万人、2100年の人口予測では7,368万人を数える超巨大都市となる予測が有。

ヘルゴランド・ザンジバル条約 (1890/8/10)
  Heligoland-Zanzibar Treaty

列強によるアフリカ分割が始まると、イギリスはドイツと北海の独領ヘルゴラント島でヘルゴランド=ザンジバル条約を締結。ザンジバル領の内の沿岸地方はドイツが獲得、島嶼部はイギリスが獲得。またドイツ領南西アフリカ(現:ナミビア)の権益を確定、ドイツ領トーゴランドイギリス領ゴールドコースト植民地(現:ガーナ)、ドイツ領カメルーンとイギリス領ナイジェリアの国境問題を解決。

キルワ・キシワニ島
  Kilwa Kisiwani
Island

キルワ・キシワニ島は東アフリカ(現タンザニア領内)沖に浮かぶ島で、イスラム教徒のコミュニティが今もある。9世紀、この島は商人アリ・ビン・アル=ハサン (Ali bin Al-Hasan) に売り渡され、以降の数世紀にわたり、交易の拠点たる大都市として成長を遂げた。取引されていたのは、ジンバブエからの黄金や鉄、タンザニアからの象牙や奴隷、アジアからの繊維、宝石、陶磁器、香辛料などだった。13世紀までに、マフダリ家 (Mahdali) の支配下、キルワは東アフリカ沿岸部最大の都市となり、その影響力はモザンビークにまで及んだ。

957年、初代サルタンのアル・イブン・アルハッサン(Ali ibn al-Hassan)が建設(957〜1495)
1331年、イブン・バットゥータがキルワ島を訪れ「キルワは世界でいちばん美しい整然と建てられた
      町の一つで、町じゅうの造りが上品で、屋根をマングローブの柱でささえて、雨が大変多く
      住民は宗教戦争に忙しい」と記録し、サルタン(Sultan al-Hasan ibn Sulaiman)の謙譲と
      篤信の精神を高く評価。その後、フスニ・クブワ宮殿 (Palace of Husuni Kubwa)の建造や
      キルワの大モスク(Great Mosque of Kilwa) の拡張が行われる
16世紀初頭、ヴァスコ・ダ・ガマ船長がこの国から貢物を受け取る
1505年、ポルトガルのアルメイダ提督がキルワ島を占領、金の搬出港ソファラもポルトガルが
      占領してポルトガル支配の時代(1499〜1506)となる、
      キルワ王国は金の交易ネットワークから外され没落
1512年、アラブ商人達に奪還され、都市は多少の栄光を取り戻す
1784年、ザンジバル島入植のオマーンの支配を受ける
      その後、フランスがキルワの島北端に要塞を築く
1840年、フランスが島を放棄
1886年、ドイツ領東アフリカの一部となる(-1918)
1950年代、本格的な考古学調査が始まる
      大モスク跡廃墟やムクティニ宮殿 (Mkutini Palace) 跡などがある。
      南にソンゴ・ムナラ島がある。

参考HP:〜
タンザニアの地図(日本語)
タンザニアの州の地図
キリマンジャロ山の登山ルート地図(日本語)
キリマンジャロ山の登山体験記(日本語)
ダルエスサラームの場所地図
タンガニーカ湖の場所地図(日本語)
リチャード・バートン卿の探検地図(赤線:1857-58)
キルワ・キシワニの場所地図

こちらで
ザンビア鉄道
ウォルビス・ベイ (ナミビア)
グラディエーター・インセクト (ナミビア)
スパイス (香辛料)
ドラケンスバーグの岩絵 (南アフリカ) 世界遺産
ヌビア遺跡 (エジプト)世界遺産
法隆寺 (日本)世界遺産
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   12/3/23、13/7/7、19/2/13、2019/9/8

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