France

国連 1980 発行
探検大航海 (Explore Voyage)
ケルゲレン・ドゥ・トレマレック船長
1772
ケルゲレン諸島発見


大航海物語
  フランス編

TERRES AUSTRALES ET ANTARCTIQUES FRANCAISES
ケルゲレン船長、乗船ル・フォーチューン号、1772

フランス南極地方 1960/11/22 発行

ケルゲレン船長、               ケルゲレン諸島ラ・グランド・テール島

フランス南極地方 1997/3/3 発行

第1回航海の僚船 1772
ル・グロス・ヴェンチャー号


フランス南極地方 1988/1/1 発行
南極大陸



←プリンス・エドワード諸島
  クローゼー諸島
ケルゲレン諸島
フランス南極地方 1981/6/23 発行

第2回航海 1773
ケルゲレン船長の乗船 ル・ローランド号


フランス南極地方 1972/1/31 発行
ケルゲレン諸島ラ・グランド・テール島の地図

フランス領南極地方 1976/12/31 発行

REPUBLIQUE FRANCAIES
       ケルゲレン諸島への航海地図
アフリカ



ケープタウン








マダガスカル島


クローゼー諸島
ケルゲレン諸島


←南極大陸
1772 ケルゲレン島、クローゼー島発見200年 1972
フランス 1972/1/29 発行

ケルゲレン船長はフランス探検隊を率いて、2度にわたり、南方大陸のテラ・アウストラリス探査の探検航海に出帆し、ケルゲレン諸島を発見しましたが、期待した成果をあげられずに帰国し、ルイ15世の怒りをかって投獄されました。フランス大革命後に海軍に復帰して海軍少将として亡くなりました。
ヤーヴェス・ジョセフ・ドゥ・ケルゲレン・ドゥ・トレマレック
 Yves Joseph de Kerguelen de Tremarec, 1734/2/13〜1797/3/3
  フランス海軍少将(仏:Contre-amiral、英:Rear admiral)、聖ルイス勲章
  生地:フィニステール県ランデュラル生
  没地:パリ、63才没
ケルゲレン船長はフランス・ブルターニュ地域圏のブレレスト港のあるフィニステール県ランデュラル(Landudal、Finistere)で生まれました。七年戦争(Seven Years' War 1756-1763)の時は私掠船(Privateer)に乗組んでいましたが、大した成果はあがりませんでした。

北大西洋探検航海
 (North Atlantic Expedition, 1767)
1767年にケルゲレン船長はイギリス・スコットランドのノース・ウイスト島(North Uist)西端のマニッシュポイント(Manish Point)の西方沖合約368kmの所にあるロッコール島(Rockall)へ航海して付近を調査し、1771年に海図を発表・公刊しました。

第1回メガラニカ探検航海
 (First Magallanica Expedition, 1771-1772)
1771/4/30(ポートルイス)〜1772/2/11(ケルゲレン諸島)〜1772/7/16(ブレスト)
1772年に南方大陸テラ・アウストラリス(ラテン語Terra Australis、メガラニカ(Magallanica、南極を中心として南半球の大部分を占めると推測された仮説上の大陸)発見の探検航海へと出帆。
現在の南極大陸

イギリス南極地域 1981 発行

ケルゲレン船長のフリュート24門艦ル・フォーチューン号(24-gun flute Le Fortune)は、サン・アローム船長の輸送16門艦ル・グロス・ヴェンチャー号(16-gun storeship Le Gros Ventre)を伴って、ブルターニュ地方のブレスト軍港(Brest port, Finistere departement, Brittany regions, France)を出帆、大西洋から、喜望峰を廻航してインド洋上に浮かぶ島イル・デ・フランス島(Isle de France、現モーリシャス島)のポート・ルイス港(Port Louis)に到着。そこで、フランス語の胡椒の呼び名「ポワヴリエ(Poivrier)」の語源となったピエール・ポイヴァール総督(別名:ピエール・ポワブル)や、ブーゲンビル船長の世界一周探検船(1766-69)に博物 モーリシャス島

ドードー鳥
モーリシャス 1954 発行
学者で乗船して植物を採集したフィリベール・コメルソン(Philibert Commercon 1727-1773)、デュフレーヌ船長ラ・ペルーズ船長などに出会い、大航海の話などを聞きました。

1771/4/30にポート・ルイスを出帆。南極圏へと航海して、1772/2/11にケルゲレン島を望見、ケルゲレン諸島を発見しました。天候が悪くなって船隊は、お互いを見失い、ケルゲレン船長はケルゲレン島にチョット立ち寄ってから帰国の途につきしました。1772/7/16にブレスト軍港に単独で到着して帰国しました。

第2回メガラニカ探検航海
 (Second Magallanica Expedition, 1773-1774)
第1回メガラニカ探検航海から帰国して、フランス国王ルイ15世(Louis XV 1710-1774)にケルゲレン諸島の発見を過大報告しました。喜んだルイ15世はケルゲレン船長に聖ルイス勲章(Order of Saint Louis)を与えました。

1773/3/26に国王が第2回目の航海を命じたので、
下がメガラニカの地図

イタリア 2002 発行
・64門戦列艦ル・ローランド号(64-gun ship of the line Le Roland)ケルゲレン船長
・32門フリゲート艦ル・オイソー号(32-gun frigate L'Oiseau)
  シャルル・ロスネヴェット船長(Charles-Louis Saulx de Rosnevet, 1734-1776)
・小型コルベット艦ドーフィン号(4-gun corvette Dauphine)後にトロメリン艦長が乗船
にて船隊を組んで、医者で動物学者のジャン・ブルギュエール(Jean Guillaume Bruguiere、1749-1798)と、天文学者のジョセフ・ダグレ(Joseph Lepaute Dagelet 1751-1788)を伴って、ブレスト軍港を出帆しました。大西洋から南極圏へと航海して、ケルゲレン諸島に到達しました。

ところが、1774/6/6に帰国して、南方大陸は発見できず、存在すらあやぶまれ、しかも「ケルゲレン諸島には価値ある物は何も無い」と帰国報告したので、国王はケルゲレン船長を軍法会議の有罪判決(1776/5/25)で、投獄しました。

其の後
 (Aftermath)
フランス大革命(1789-1799)の時には古き良き時代(アンシャン・レジーム:Ancien Regime)人物の犠牲者を見ることになりましたが、ケルゲレン船長は海軍に復帰できました。そして、グロワ島の海戦(Battle of Groix、1795/6/23)に海軍少将(Rear-Admirals Kerguelen)として従軍し、イギリス艦隊旗艦100門戦列艦クゥイーン・シャーロッテ号(HMS Queen Charlotte, 1790, 2286t)
イギリス100門戦列艦
ロイアル・アデレード号


リベリア 1972 発行
座乗のフッド提督弟の初代ブリッドポート子爵アレクサンダー・フッド海軍少将(Rear Admiral Alexander Hood, 1st Viscount Bridport, KB, 1726-1814、戦後に中将)麾下のイギリス艦隊戦列艦14隻を迎え打って、第一共和政フランス(1792-1804)の海軍少将ルイ・トマス・ヴィラレー・デ・ジョワイユーズ(Vice-admiral Louis-Thomas Villaret de Joyeuse, 1747-1812、後に中将)提督と共にフランス艦隊戦列艦12隻で戦い、戦列艦3隻を捕獲されるも祖国フランスを防衛しました。1797年に63才でブレスト軍港の司令官・海軍少将として亡くなりました。

なお、ケレゲレン諸島は、1776年にクック船長が第3回航海で南極地方への探検航海時に再発見し、上陸して調査しました。

参考HP:〜
フィニステール県の地図
フィニステール県の場所地図(フランスの地図)
ロッコール島の場所地図
ケルゲレンのロッコール島地図(Rockall Kerguelen map 1771)
ロッコール島の写真
ケルゲレン諸島の地図
南極周辺の島の一覧(日本語)

ルイ・フランソワーズ・デ・サン・アローム船長の其の後の航海
 (Louis Francois Marie Aleno de Saint Alouarn 1738-1772)
 (仏カンペール(Quimper、Finistere, Brittany, France)生)
 (イル・デ・フランス島ポート・ルイス(Port Louis、Isle de France)没)
1772/2/11、ケルゲレン島を望見後、僚船のル・フォーチューン号を見失い
      探しながら、ケルゲレン島を探索し続け、西オースラリア
      のフリンダース湾(Flinders Bay)到着
1772/3/17、オースラリア最南端と思われたルーウィン岬
      (Cape Leeuwin)を回航
1772/3/28、オースラリア西岸のシャーク湾(Shark Bay)に到着
オーストラリア地図

オランダ 1988 発行
1772/3/30、ダーク・ハートッグ島(Dirk Hartog Island)に上陸
      其処でフラミング船長の痕跡を発見(1696年刻印ビンの鉛キャップ、
      仏銀貨エキュ(ecu)2個と金貨リーヴル(Livre tournois)6個)
      其の後は北上して壊血病に苦しみながらポルトガル領チモール島
      しばらくの間の休養
      オランダ東印度会社のジャワ島バタビア(現:ジャカルタ)着
1772/09/05、モーリシャス島ポート・ルイス着
      ケルゲレン船長にオーストラリア西岸探検航海の手紙を送って
      其の領有を主張後、病に伏す
1772/10/27、病状が悪化して亡くなる
1792年、ダントルカストー船長がルーウィン岬の南東で島を発見して
    サン・アローム船長に因みサン・アローム島(St Alouarn Island)と命名しました。
参考HP:〜
ルーウィン岬の場所地図(Cape Leeuwin、Flinders Bay、Point d'entrecasteaux、有)
オルバニー付近の地図(オーストラリア南西端の地図)
サン・アローム島の場所地図(ルーウィン岬の南に有)
ダーク・ハートッグ島の場所地図(シャーク湾の地図)

こちらで
ファントム・アイランド
世界遺産
富士山日本
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。08/8/18、08/9/19追記、13/5/31、令和 R.3/12/22(2021)
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