Netherland

国連 1989 発行
切手で綴る 蘭英戦争(Naval Battle Voyages) オランダ海軍の提督 No.7
コーネリス・エヴァツェン提督
1666/6/11
ノースファランド沖の海戦(四日海戦)

大航海物語
 オランダ編

NEDERLAND
エヴァツェン提督(五男)

オランダ 1943-44 発行

JERSEY
英仏海峡の地図

ジャージー 1970-75 発行



NEDERLAND
オランダの地図

オランダ 1972 発行

海戦の図

赤道ギニア 1975 発行

エバツェン(甥)は16才で海に出て私掠船に乗組み、オランダ独立戦争中は「ドーンの海戦」、第一次蘭英戦争では「スヘフェニンゲンの海戦」で英軍の捕虜となり、北方戦争では「ナイボーグ救援海戦」に勝利するなどしましたが、第二次蘭英戦争でのノースファランド沖の海戦 「四日海戦」で戦死しました。
・蘭提督コーネリス・エヴァツェン・ザ・エルダー中将(五男)
 
(Dutch Lieutenant Admiral Cornelis Evertsen the Elder, 1610/8/4-1666/6/11)
蘭提督コーネリス・エヴァツェン(五男)はスペイン領オランダジーランド州のフリシンゲン(Vlissingen, Zeeland province, Spanish Netherlands, 1556-1714)で、ワーテルゲーゼンというスペインの迫害に対抗していたネーデルラント貴族同盟の父ジャン艦長(Captain Jan)ことヨハン・エヴァツェン(Johan Evertsen, 1617没)の家庭に五男で生まれました。

1617年7才で父が仏ラ・ロシェル近くでフランス海賊と戦って亡くなった時に、オランダのジーランド海軍本部が幼い5人の男子兄弟全てを海軍士官に任命するという異例の厚遇を与えて、遺族の家族を救いました。1626年に16才で海に出て、オランダ私掠船に乗組みました。1636/8/25に26才で船長に任命されました。1639年に英仏海峡で勃発したダウンズのの海戦(Battle of Downs 1639/10/31)に従軍してスパニッシュ・ガレオン船(Spanish Galeon)を拿捕してオランダの勝利に貢献しました。1652/5/1に准将(Brigade Admiral)に任命されました。

第1次蘭英戦争(1652-1654、41才勃発)ではジーランド海軍の副司令官(Vice-Commodore, Zealand)になりました。スヘフェニンゲンの海戦(Battle of Scheveningen, 1653/7/31、オランダ・ハーグ近郷)で乗艦が沈没・負傷して3ヵ月間イギリス軍の捕虜になりました。1654/3/14に少将(Rear Admiral)に昇進。北方戦争中(2nd Northern War, 1655-1660)での1659年にデ・ロイテル提督艦隊の副司令官(Sub Commander)に就任してスェーデンと闘って、ナイボーグの海戦(Battle of Nyborg, 1659/11/14)に勝利。デンマークのナイボーグ(Nyborg, Denmark)を解放しました。1661年にデ・ロイテル提督の下でオランダ地中海艦隊の第3指揮官(3rd commander of Dutch Mediterranean fleet)となり、アルジェの海賊(Corsairs of Algiers)を討伐して、デ・ロイテル提督と個人的に親しい友人になりました。

第2次蘭英戦争(1665-1667、54才勃発)の時にはジーランド海軍の副提督(Vice-Admiral of Zealand)になりました。英サフォーク州ローストフト港(Lowestoft port, Suffolk, UK)東沖でのローストフトの海戦(Battle of Lowestoft , 1665/6/13, 英勝利) に旗艦フリシンゲン号(Vlissingen 46gn)に乗艦して第6艦隊を率いて従軍。中将(Lieutenant Admiral)に昇進し、オランダ海軍の中将が7人になりました。1666年にノースファランド沖の海戦(四日海戦, 1666/6/11:新暦6/1)が勃発し、初日に蘭オルヘレン号(Walcheren 70gn)が英ヘンリー号(HMS Henry 64gn)の砲撃を受けて提督コーネリス・エヴァツェン・ザ・エルダー(五男)が戦死。ヨハン・エヴァツェン提督(長兄, Vice Admiral Johan Evertsen 1600/2/4-1666/8/5)はセント・ジェームスデーの海戦(1666/7/25:旧暦8/4)で戦死しました。1681年に両提督は蘭ジーランド州ミデルブルグの大聖堂(Abbey of Middelburg)に手厚く埋葬されました。なお、英イングランド南東部ケント州海岸ブロードステアーズ白亜のノース・フォアランド岬(Chalk headland Cape North Foreland, Broadstairs, Kent,  Southeast England)沖のセント・ジェームズ・デーの海戦(St. James's Day Battle, 1666/8/4, 英勝利)に中将コーネリス・エヴァツェン・ザ・ヤンガー(従弟, Lieutenant Admiral Cornelis Evertsen the Younger 1628/4/16-1679/9/20)が旗艦オルヘレン号(Walcheren 70gn)に乗艦して従軍しました。1640年にヨハンナ・ヴァン・ゴルカム(Johanna van Gorcum)と結婚して、子供14人が誕生するも、5人は乳児で夭折。2番目の子供は中将(コーネリス・エヴァツェン・ザ・ヤンゲスト(次男), Lieutenant-Admiral Cornelis Evertsen the Youngest, 1642-1706)となり、10番目の子供も中将(ゲリン・エヴァツェン, Lieutenant-Admiral Geleyn Evertsen ,1655-1711)になり、2人は艦隊の旗艦に士官で乗組みました。1657年にヨハンナ夫人が亡くなった後、1659年に再婚して子供2人が誕生しました。

参考:〜:
ワーテルゲーゼン (Watergeuzen:水乞食) は、1566年からオランダでのスペインの支配に反対したカルヴァン派のオランダ貴族の同盟によって結成されたゲーゼン(Geuzen)の中で、海で活動して最も成功したグループ。八十年戦争では、1572 年のワーテルゲーゼンによる南ホラント州フォールネ・アーン・ゼー市ブリーレ(Brielle, Voorne aan Zee, South Holland Province)の戦い(ブリーレの占領:Capture of Brielle 1572/4/1)でワーテルゲーゼンがブリーレを占領して反乱軍に陸上での最初の足場を提供し、オランダ北部を征服。独立してオランダ共和国を樹立することになりました。状況や動機に応じて
オランダのドロメダ号

南アフリカ 1956 発行
彼らは私掠船または海賊のいずれかになりました。なお、ゴイセン(Geusen)とは、スペインによる迫害に抗して1566年に結成された、ネーデルラントの貴族の同盟で「乞食党」ともいい、後に同地におけるカルヴァン派を指すようになりました。

参考HP:〜
オランダの地図(1672)
オランダの区分地図(フランスの進撃図、1672)
スヘフェニンゲンの場所地図(オランダ西部の地図)

こちらで
蘭英戦争(1652-1674)
第1次蘭英戦争(1652-1654)
第2次蘭英戦争(1665-1667)
第3次蘭英戦争(1672-1674)
第4次蘭英戦争(1780-1784)
マゼラン (海峡)
スパイス (香辛料)
コーヒー (嗜好飲料)
ラッコ(絶滅危惧種)
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カリブ海の地図(島国シリーズ)
フランスの王と王族(ブルボン朝)
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・切手で綴る東海道五十三次
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・スペインの画家ゴヤ
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ヌビア遺跡エジプト
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿ギリシャ
モヘンジョダロパキスタン
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   平成20年 2008/3/23追記、令和5年 2023/5/5
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