Netherland![]() 国連 1989 発行 |
切手で綴る 蘭英戦争(Naval Battle Voyages) オランダ海軍 (No.18) 提督 ※III-8
ドラケンバーグ男爵ガント提督
メドウェイ襲撃 ソールベー沖海戦 |
大航海物語 オランダ編★ |
| NEDERLAND Qガント提督 ![]() オランダ 1943-44 発行 |
| JERSEY 英仏海峡の地図 ![]() ジャージー 1970 発行 |
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NEDERLAND オランダの地図 ![]() オランダ 1972 発行 |
| REPUBLICA DE GUINEA ECUATORIAL 海戦の図 ![]() 赤道ギニア 1975 発行 |
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ガント提督は18才で陸軍に入隊。1659年スウェーデンとの第2次北方戦争中に少佐でワロン連隊を率いてデ・ロイテル提督指揮下にて水陸両用作戦でデンマークのフュン島に敵前上陸して勝利し、オランダ海兵隊が創設されると初代司令官に就任しました。第二次蘭英戦争中にはメドウェイ川の襲撃(チャタムの海戦)でオランダ海兵隊を率いて英ロンドンのテームス川支流にある英海軍チャタム造船所を襲撃して勝利しました。第3次蘭英戦争ではソールベー沖の海戦に従軍して戦死しました。 |
| 蘭提督ドラケンバーグ男爵ウィレム・ヴァン・ガント大将 ウィレム・ジョゼフ・バロン・ファン・ガント・トット・ドラケンバーグ提督 (Admiral Willem Joseph baron van Ghent tot Drakenburgh 1626/5/14-1672/6/7) (ドラケンバーグ男爵ウィレム・ヴァン・ガント提督:Willem van Ghent) (オランダ海兵隊(Dutch marines)初代司令官) 生地:スペイン領オランダのヘルダーランド州ヴィンセン村生 (Vinsen, Gelderland(#4), Spanish Netherlands) 没地:ソールベー沖の海戦、46才没 英仏海峡の北で北海沿岸英サフォークのサウスウォルド町のソール湾沖 (off Sole Bay, Southwold, Suffolk(#1A17), North Sea coast, English Channel)
イギリスは英諜報者からオランダの脅威の警告を受けるも国王が防御を強化する努力をしなかったので、メドウェイ川(River Medway 113km, Kent, England)の防御が貧弱で、そのためにイギリスはチャタム造船所(Chatham Dockyard)に向かって砲台を築き、ジリンガム(Gillingham)の近くのメドウェイ川に閉塞船を沈めて、その上流に防鎖を渡しました。そこには英のピンネス艦30隻が火船攻撃を防ぐために待機しているも、停泊艦はほとんどが大砲を外していて戦闘に使用不能でした。オランダ艦隊は川を遡上してイングランドのケント州北部シェピー島(Isle of Sheppey, Kent, England)北西の角にあるメドウェイ川の河口の横にある港町シェアネスの砦(Sheerness Fort)を砲撃しました。オランダ艦隊は閉塞船をどけて航路を作り、ジリンガムに張られていた鎖を破壊し、火船で戦列艦を焼き払い、ジリンガムからチャタム造船所の向かいのアプノア城(Upnor Castle)を攻撃。1隻の火船が英警備艦マサイアス号(Mathias 52gn)を破壊。オランダ艦隊はロイヤル・チャールズ号を拿捕して、オランダまで後ろ向きに曳航しました。ガント提督はユニティ号(Unity 42gn)を拿捕して自らの旗艦にしました。1667/6/14に火船はあらかた消え去り、デ・ロイテル提督はメドウェイ川から撤退してテムズ川の河口へ向かいました。オランダ艦隊の数は84隻に増えて、テムズ川河口に陣取り、デ・ロイテル提督とガント提督で役割を分担してイギリスの迎撃と哨戒に当たったため、テムズ川の交通が閉ざされ、ロンドンの石炭価格が高騰。1トンの値段が15シリングから140シリングに跳ね上がったといわれています。 ガント提督は南ホラント州南西のゴエリー島(Goeree)でロイヤル・チャールズ号を引き渡した直後、ドルフィン号(Dolphijn 30gn)でシェトランド諸島(Shetland)へ向かい、東インド諸島からの半年ごとの輸送船団の帰還艦隊を護衛しました。1667/7/31にブレダの和約の条約が調印されて初めて護衛艦隊とともにテクセル島に戻りました。チャタム海戦はイギリス最大の戦列艦3隻(ロイヤル・ロンドン号、ロイヤル・オーク号、ロイヤル・ジェームス号)が焼失し、ロイヤル・チャールズ号が捕獲されるなど、オランダ軍がイギリス軍に対して得た最大の海戦勝利であり、イギリス海軍がオランダ史上で受けた最大の敗北でした。ガント提督はオランダ総督から金の聖杯(Golden enamelled Chalice)を授与されました。 ・第三次蘭英戦争 (3rd Anglo Dutch War, 1672/3/27-1674/2/19) 第二次蘭英戦争後の翌年の1668年にガント提督は陸に上がってユトレヒト州(Utrecht)国務院議員になりました。1670/5月〜11月の間は英トーマス・アリン提督G指揮のイギリス艦隊と協力して、西アフリカ沖でアルジェリア海賊(Algerian corsairs)に対する討伐作戦に従事しました。ガント提督艦隊はアムステルダム・ロッテルダム・ジーラントの海軍本部で構成されたフリゲート艦を主体とする艦隊13隻でした。提督の副提督はIヨハン・デ・リーフデ(Johan de Liefde)とEコルネリス・エバーツェン・ザ・ヤンガー(Cornelis Evertsen the Younger)が務めました。1670/8/17にガント提督は旗艦シュピーゲル号(Spiege)に座上して、英リチャード・ビーチ准将(Commodore Richard Beach, 1692没)指揮下のイギリス艦隊とともにアルジェリアの私掠船(Algerine privateers)6隻を拿捕して炎上させ、200人のキリスト教徒奴隷を解放しました。その恩賞として、800ギルダー(guilders)相当の金の鎖(golden chain)を受領しました。 1671年に再びイギリスとの戦争危機が迫った夏にオランダ南軍艦隊は主に紛争に備えた訓練に追われ、ガント提督は旗艦グーデン・レーウ号(Gouden Leeuw 90gn)に座上して主にフリゲート艦で構成される第3艦隊を指揮。副提督はスウィアーズ提督(vice-admiral Isaac Sweers, 1622/1/1-1673/8/22オリファント号戦死)が務めました。
ガント提督の遺体はすぐにガリオット艦ウォルビッシュ号(galliot Walvisch)でオランダに持ち帰られました。ガント提督家族は、当時フランス軍に占領されていたユトレヒト州(#11)ユトレヒト市(Utrecht)に埋葬したい意向を示していたため、そこで防腐処理が施されました。1674/8月に彫刻家ロンバウト・フェルフルスト(Rombout Verhulst, 1624-1698)はユトレヒト市の聖マルティン大聖堂(St. Martin's Cathedral)にあるガント提督の墓碑の制作を開始し、1676/6月に完成。その時までガント提督は一時的にヘルダーラント州アーネム(Arnhem)に埋葬されました。ガント提督は正確な日付は不明なるも、1680年後半以前のある時点で再埋葬されました。墓碑は今も残って有。ガント提督は勇敢でありながら親切で気取らない人物だったことから、共和国内で深く悼まれました。 考HP:〜 ・テームズ河の場所地図(Thames) ・テームズ河々口部の地図(Raid on the Medway、1667/6/9-14)Chatham & Upnor Castle有 ・メドウェイ川の城塞の配置場所地図(Medway Forts, 1539-1956) ・メドウェイ川の場所地図(Medway) ・オランダの地図(オランダの州) ・テクセル島の場所地図 ・オランダの地図(1672) ・オランダ最大版図の地図(19世紀) ・オランダの地図(現在、水面下を示す図) こちらで ・蘭英戦争(1652-1674) ・第1次蘭英戦争(1652-1654) ・第2次蘭英戦争(1665-1667) ・第3次蘭英戦争(1672-1674) ・第4次蘭英戦争(1780-1784)
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和5年 2023/12/23、令和8年 2026/4/15 |
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