France

国連 1980 発行
 切手で綴る 海戦大航海(Naval Battle Voyages)
ラ・ブルドネス提督
1736
モーリシャス島のポートルイス市を建設


大航海物語
 フランス編

MAURITIUS
ラ・ブルドネス提督と航海地図
フランス〜モーリシャス〜インド


La Bourdonnais, Route Map, Atlantic Ocean〜Indian Ocean
モーリシャス 1997/6/9 発行

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ラ・ブルドネス提督
年 表
ナーガパッティナムの海戦
マドラスの海戦

 ・グリフィン提督
 ・
パッサロ岬の海戦
ジェンキンスの耳の戦争 ペイトン卿  ・カルタヘナの海戦

MAURITIUS
ラ・ブルドネス提督

ラ・ブルドネス提督生誕100年記念
モーリシャス 明治32年 1899 発行
ラ・ブルドネス提督の記念碑像

La Bourdonnais Statue
モーリシャス 1953/11/3 発行

フランスのラ・ブルドネス提督は1726年のインド・マラバール海岸の戦いで英雄となり、1735年からインド洋”モーリシャス島”のフランス総督になって、ポートルイス市を建設しました。
REPUBLIQUE FRANCAIES
ラ・ブルドネス提督とインド洋方面航海図

La Bourdonnais 1699-1753
フランス 1988/2/20 発行 2.2+0.5=2.7f 寄付金付
バスティーユ牢獄

フランス大革命 記念
フランス 1971 発行

MAURITIUS
ポートルイス市の建設 1736

モーリシャス 1978/3/12 発行
モーリシャス島 と ”どーどー鳥”(DoDo)

東経 57°30′  南緯 20°10′
モーリシャス 1954 発行

ラ・ブルドネス伯爵ベルトラン=フランソワ・マヘ提督
 Bertrand-Francois Mahe, comte de La Bourdonnais(1699/2/11〜1753/11/10)
ラ・ブルドネス提督はフランスのブルターニュー地方イル=エ=ヴィレーヌ県サンマロ(Saint-Malo. Il-ha-Gwilen Department, BretagneIlle-et-Vilaine Region)で生まれました。少年時代に船員となり、1718年フランス東インド会社(French East India Company, 1769-1794)に採用され、19才でルテナン(Lieutenant:海軍士官)に成り、1724年25才でキャプテン(Captain:艦長)になりなりました。1726年にはインド南西部マラバール海岸(Malabar)での作戦に従軍しました。マラバ−ル海岸での武勇伝で、提督の名前のマヘ(Mahe)がインドのフランス植民地の町の名前になりました。その後の2年間は、ゴアのポルトガル総督のもとで働きました。

1710年にオランダがモーリシャスから撤退すると、近隣のレユニオン島を植民地化していたフランスが植民を計画し、1715年にモーリシャスを占領して、フランス島と名付けました。1735年にラ・ブルドネス提督がマスカリン諸島フランス島(Isle de France:現モーリシャス島)とブルボン島(Isle de Bourbon:現レユニオン島)を管理するフランス東インド会社(French East India Company:仏Compagnie francaise des Indes Orientales, 1664-1769)初代マスカリン諸島総督(Gouverneur general des Mascareignes, 1735/6/4-1746/3/23)に就任。1736年にはフランス島にポートルイス市(Port Louis, Mauritius)を建設するなど各種開発を行ってフランス島の基盤を作って島の発展につとめました。この時期のフランス島の経済の基盤はサトウキビのプランテーションで、その労働力のために主にアフリカから多くの奴隷が移入されました。一説では、1735年の奴隷638人から毎年約1,300人増加したとの説有。

1740年にフランス帰国を予定するも、イギリスとのオーストリア継承戦争(1740-1748)勃発で中止しました。1744年には奴隷720人を加えた部隊3,342人を編成し、フランス島からインドのマドラスへ、イギリス艦隊の脅威の中を大航海して部隊を送り届ける軍事遠征を成し遂げました。1741年には提督がインド南西ポンディシェリ連邦州マヘ(Mahe, Mahe district, Puducherry Union Territory, India)の町の現地マラーター王国(Marathas)を駆逐して開放し、その地名が提督の名にちなんで「マヘ」と命名されました。それは、インド東海岸ポンディチュリイ(Pondicherry)地区総司令官で、後の第一次カーナティック戦争(1740-1748)を英と戦った侯爵デュプレックス将軍(Joseph Marquis Dupleix, 1697-インド総督(Governor general)在任1742- 1754-1763)を喜ばせました。

1746/7月にオーストリア継承戦争中の第一次カーナティック戦争でインドでのマドラスの包囲攻撃の戦い(Siege of Madras, 1746/9/7-9)の前哨戦に従軍して、イギリスのペイトン卿ナーガパッティナムの海戦を闘い勝利しました。

1746年9月に第一次カーナティック戦争中インドのマドラス包囲攻撃戦(Siege of Madras, 1746/9/7-9)に従軍。イギリスのペイトン卿の後任のグリフィン提督マドラスの海戦を闘い勝利しました。

提督がマドラスの戦い後、デュプレクス将軍から、イギリス東インド会社から多額のお金を受け取ったとの収賄の嫌疑をかけられ、しかも将軍がマスカリン諸島総督の後継者にフランス東インド会社取締役の子息を任命したことで、フランスへの帰国を余儀なくされました。提督は帰国して宮廷で「自分が正当であると主張するため」にオランダ船に乗船するも、イギリス船に捕らえられました。その後、仮釈放されてフランスへ帰国することが許されました。

帰国すると、提督が正当であると主張する間もなく、デュプレックス将軍との争いではなく「総督時代の収賄と悪政」のそしりを受けて、1748年にその罪で逮捕されました。そして、パリのフランス革命前のバスティーユ牢獄に、2年以上もの間、密かに投獄されていました。提督は投獄で健康状態がとても悪くなって、1751年に仮放免されるも、資産の没収による打撃で、病状はさらに悪化しました。そして提督は、1753年54才でパリにて亡くなりました。その後、フランス政府は提督の業績を認めて、提督のシャルロッテ未亡人に2,400リブレ( livres)の年金を与えました。

提督は、1733年にフランス島でマリー・アン・レブルン・デ・ラ・フランケリー(Marie Anne Lebrun de la Franquerie,1712-1738)と結婚して、フランソワ(Francois, 1736-1738夭逝2才)と ルイ(Louis Philibert Francois, 1737-1744)の2児に恵まれるも、1738年にフランス島で夫人が亡くなりました。その2年後の1740年にパリでシャルロッテ・デ・コンボー・ダテュイユ(Charlotte de Combault d'Auteuil, 1787没)と再婚し、シャーロット(Charlotte Francoise, 1741夭逝)、ルイ・フランソワ(Louis Francois, 1743-1810, Lieutenant中尉)、 テレーズ(Therese, 1744夭逝)、キャサリン(Catherine, 1746, 1767年結婚)の4児に恵まれました。娘キャサリンはフランス島に住み続け、1798年に国民議会で年間3,000ルイの年金を受け取りました。

ラ・ブルドネス提督の生涯年表
 記  事
1699 ブルターニューのサンマロで誕生
1718 19 フランス東インド会社に採用される
1724 25 キャップテン(船長)となる
1726 27 インドのマラバル海岸攻撃に参加し、英雄となる
1735 36 モーリシャスとレユニオンの総督となる
1736 37 モーリシャス島ポートルイス市を建設
1740 41 イギリスとの戦争が勃発(オーストリア継承戦争)
1746 47 インドのマドラス包囲攻撃に参戦、イギリスのペイトン卿と戦う
デュプレックス将軍との確執で、
オランダ船で帰国中にイギリス船に捕らえられるも仮釈放でフランス帰国
1748 50 バスティーユ牢獄に2年以上も幽閉される
1751 52 バスティーユ牢獄から釈放される
1753 54 パリに没す。未亡人にフランス政府が年金を支給。

<参 考>
1742年にフランスの探検家ラザール・ピコ船長が提督の名前(マヘ)に因んでセイシェル諸島の本島をマヘ島(Isle de Mache)と命名しました。1859/8/30にモーリシャス島ポートルイス市ダルム広場(Place D'Armes , Port Louis)に提督の像が建てられました。フランスのサンマロ港(Saint-Malo, Ille-et-Vilaine, Brittany)に別の提督の像があります。レユニオン島サン・ドニ(Saint-Denis, Reunion)にも提督の像が建てられれています。提督の没後、インドの”Mahe”やモーリシャスの”Mahebourg”など数ヵ所に提督の名前が付けられた町が有ります。モーリシャスの首都ポートルイスは1735年にラ・ブルドネス提督が建設。提督の孫息子(ルイ・デ・ラ・ブルドンネ, Louis-Charles Mahe de La Bourdonnais、1795-1840)は有名なチェス・プレーヤーとなりました。1787年にはダントルカストー提督がフランス島のあるマスカリン諸島総督(在任1787-1789)に就任。

参考HP:〜
フランス領インドの場所地図(1741-1754、マヘ・ポンディチュリイ有)
マヘの地図(1726年頃、インドのフランス植民地)
ポンディチュリイの場所地図(インド)
インド交易所の場所地図(18世紀インドでのヨーロッパ交易所)
・モーリシャス首都ポートルイスの場所地図(人口約15万人2005)


<ナーガパッティナムの海戦>
(Sea Battle of Negapatam 1746/7/6)
 (First Carnatic War, 1746-1748)
 ・別名:フランス艦隊とイギリス艦隊との遭遇戦
  (The action of 6 July 1746)
 ・対戦:フランス艦隊 vs イギリス艦隊
 ・戦場:ナーガパッティナム沖
 ・勝敗:フランスの勝利
インドの地図

インド 1943 発行
ナーガパッティナムの海戦は、1746/7月にインド南東部タミル・ナードゥ州ナーガパッティナム県ナーガパッティナム郡ナーガパッティナム(Nagapattinam, Nagapattinam District, Nagapattinam Region, Tamil Nadu State)にはオランダの交易所があって、その沖合でペイトン郷指揮下イギリス艦隊と、ラ・ブルドネ提督指揮下フランス艦隊が、第一次カーナティック戦争の初期に交戦した海戦。両方の艦隊が損傷し、フランス艦隊は修理のためにポンディシェリに入港、イギリス艦隊はトリンコマリーに入港しました。フランス艦隊はポンディシェリで支援艦隊と合流して出帆。1746/8月に英仏両艦隊が再び会ったとき、イギリス艦隊は海戦を避けてベンガルへ撤退。その後、提督は9月にマドラスの占領を成功に導きました(マドラスの戦い)。
仏英の艦隊 戦列艦 その他 司令官 乗艦
・フランス 1隻 8隻 インディアマン船 ラブルドネス提督 アキール号
・イギリス 4隻 2隻 フリゲート艦 ペイトン卿 メドウェイ号
<仏英の艦隊編成>:〜参加艦船名
・フランス艦隊の編成:〜フランス東インド会社(1664-1769)
 (French Royal Navy Squadron, East Indies)
 司令官:伯爵 ラ・ブルドネス提督
 (Commander Comte de La Bourdonnais)
フランス戦列艦
ヴィル・ド・パリ号


マーシャル諸島 1998 発行
フランス艦隊(主力) 戦列艦
・アキール号 Achille 72
・ブルボン号 Bourbon 44
・フェニックス号 Phenix 44
・リス号 Lys 40
・ネプチューン号 Neptune 40
・サン・ルイ号 Saint Louis 36
・オルレアン公爵号 Duc d'Orleans 36
・インシュレール号 Insulaire 30
・レノミー号 Renommee 30
※東インド会社インディアマン貿易船(East Indiaman Ship)
・イギリス艦隊の編成:〜イギリス東インド会社(1600-1874)
 (British Royal Navy Squadron, East Indies)
 司令官:ペイトン卿
イギリスの戦列艦
ヴァンガード号


ジブラルタル 2007 発行
イギリス艦隊 戦列艦
・メドウェイ号 HMS Medway 64
・レストン号 HMS Preston 64
・ハーウィッチ号 HMS Harwich 54
・ウィンチェスター号 HMS Winchester 54
・メドウェイズプライズ号 HMS Medway's Prize 46 Frigate
・ライブリー号 HMS Lively (1740) Frigate
参考HP:〜
ナーガパッティナム沖の場所地図(インド 1750年頃の地図)
 (インドの南東部に、"Madras","Pondicherry","Cuddarole","Fort St.David" など有)


<マドラスの海戦>
(Battle of Madras 1746/9/9、First Carnatic War 1746-1748)
 ・対戦:フランス艦隊 vs イギリス艦隊
 ・戦場:マドラス沖
 ・勝敗:フランスの勝利
1746年9月に第一次カーナティック戦争中インドのマドラス包囲攻撃
インドの地図

インド 1957/4/1 発行
戦(Siege of Madras, 1746/9/7-9)に従軍。イギリスのペイトン卿の後任のグリフィン提督と闘いました。フランス軍によるイギリス占領下マドラスの包囲攻撃戦支援で、マドラス沖のイギリス防衛艦隊をフランス艦隊が攻撃してマドラスの海戦が勃発。フランス艦隊はイギリス艦隊をトリンコマリーへと撤退・敗走させて勝利し、マドラスのイギリス軍は降伏。マドラスの戦いの戦場は南インド東タミル・ナードゥ州ベンガル湾沿いコロマンデル海岸マドラス(Madras、現チェンナイ:Chennai)の包囲攻撃戦で、フランス軍がイギリス軍を攻撃してマドラスを占領した戦い。マドラスは終戦までフランスが保持するも、アーヘンの和約でジョージ王戦争中にイギリスに占領されたルイブール要塞と交換でイギリスに返還されました。
仏英の艦隊 主力戦列艦 その他 司令官 乗艦
・フランス 8隻 3隻 ラブルドネス提督 アキール号
・イギリス 10隻 1隻 グリフィン提督 プリンセスメアリー号
<仏英の艦隊編成>:〜参加艦船名
・フランス艦隊の編成:〜フランス東インド会社(1664-1769)
 (French Royal Navy Squadron, East Indies)
 司令官:伯爵 ラ・ブルドネス提督
 (Commander Comte de La Bourdonnais)
フランス74門戦列艦

Le vaisseau de 74 canons
セント・ヴィンセント 1989 発行
フランス艦隊(主力) 戦列艦 Original Squadron
・アキール号 Achille 74 旗艦
・オルレアン公爵号 Duc d'Orleans 56
・ブルボン号 Bourbon 56
・ネプチューン号 Neptune 54
・フェニックス号 Phoenix 54
・サン・ルイ号 Sainte Louis 44
・リス号 Lys 40 (ユリ号)
・インシュレール号 Insulaire 30
(9月補充) Join, September
・ケンタウロス号 Centaure 74
・マルス号 Mars 56
・ブリリアント号 Brillant 50

・イギリス艦隊の編成:〜イギリス東インド会社(1600-1874)
 (British Royal Navy Squadron, East Indies)
 司令官:イギリス赤色艦隊(Red Squadron)海軍少将グリフィン提督
 (Commander, Rear admiral Thomas Griffin、c1692-1771)
イギリスの64門戦列艦
アガメムノン号


ジブラルタル 2007 発行
イギリス艦隊 戦列艦
・プリンセスメアリー号 HMS Princess Mary 60 旗艦
・メドウェイ号 HMS Medway 60
・エクセター号 HMS Exeter 60
・ヨーク号 HMS York 60
・ウィンチェスター号 HMS Winchester 50
・ハーウィッチ号 HMS Harwich 50
・プレストン号 HMS Preston 50
・エルサム号 HMS Eltham 40
・パール号 HMS Pearl 40
・メドウェイズプライズ号 HMS Medway's Prize 40
・ライブリー号 HMS Lively 20
参考HP:〜
インド交易所の場所地図(18世紀インドでのヨーロッパ交易所(Madoras)マドラス有)



・提督エドワード・ペイトン卿
 (Lord Edward Peyton. 生年不詳-1749/4/4没)
提督ペイトン卿は、1707年にイギリス海軍に入隊しました。1744年には東インド艦隊60門艦メドウェイ号(HMS Medway, 60gn)に艦長で乗艦(1744-1746)していました。1746年に東インド艦隊司令官(Commander-in-Chief, East Indies)カーティス・バーネット代将(Commodore Curtis Barnett, 1746/5/2没)がベンガル湾カッダロールのセント・デイヴィッド要塞(Fort St. David, Cuddalore)沖で病没して、代将(commodore)に任命されて、後任の司令官に
英戦列艦ヴィクトリー号

ジブラルタル 2007 発行
就任し、戦列艦7隻を指揮しました。欧州でオーストリア継承戦争が勃発して、インドのベンガル沖にも戦火がおよび、1746年に仏のラ・ブルドネス提督艦隊とナーガパッティナムの海戦を闘いました。ペイトン卿イギリス艦隊は1746/6/25にラ・ブルドネ提督のフランス艦隊をネガパトナム沖で目撃して攻撃するも、フランス艦隊をイギリス艦隊が十分なダメージを与えるには遠すぎたため、衝突は決定的ではなく、海戦を中断して修理のためにコロマンデル海岸からトリンコマリーに撤退。その後、東インド会社に艦隊の損害が酷いと非難されて、司令官を解任されました。そして後継者のグリフィン提督に逮捕されました。ペイトン卿はイギリスに呼び戻されるも、起訴はされませんでした。そして失意のうちに3年後亡くなりました。
参考HP:〜
ナーガパッティナム沖の場所地図(インド 1750年頃の地図)


・海軍大将トーマス・グリフィン提督
 (Admiral Thomas Griffin, 1692-1771/12/23)
グリフィン提督はノーサンプトン郡ブレイブルック(Braybrooke, Northampton county)のグリフィン卿(Lord Griffin)家系の家庭で、英国ウェールズ南東部モンマスシャー州ディクストン・ハドノック教区(Dixton Hadnock parish, Monmouthshire, Wales, UK)にて生まれました。提督は20才頃にイギリス海軍に入隊後、1715年23才で海尉任官試験(Lieutenant's Examination)に合格、士官候補生(Ensign candidate)としてウェイマス号乗組。1716年に少尉候補生ミッドシップマン(Midshipman)でパンサー号に乗組みました。
英の戦列艦キャプテン号

ジブラルタル 2007 発行
1718年26才で少尉(3rd Lieutenant)に任官してオーフォード号乗組み、パッサロ岬の海戦に従軍。1742/9月に将校に苦情を言われるのも物ともせず、士官キャビンから将校を移動して乗客を収容しました。1740年にバーフォード号艦長でカルタヘナ・デ・インディアスの海戦に従軍。1741年後半、セントジョージ号(HMS St George)艦長(Commanding Officer)でジェンキンスの耳の戦争に従軍。1743年にキャプテン号(HMS Captain)艦長で、フランスの小型船と交戦し、敵大型船8隻を見過ごしたとして告発された事件に巻き込まれました。グリフィン艦長の説明は当時受け入れられるも、後で再検討されました。1746年にイギリス海軍の東インド艦隊(East Indies Station, (Cuddalore?)India, 1744-1958)司令官(Commander-in-Chief, East Indies、在任1746-1748)に就任。1747/3月にカッダロール(Cuddalore, Coromandel Coast, India)近くのガディラム河(Gadilam River, 1,334km)河口付近沿いセント・デイヴィッド要塞(Fort St David, 17th century-1785)を補強。1747/7月に赤色艦隊少将(rear admiral of the red)に昇進。1748/5月に青色艦隊中将(vice admiral of the blue)に昇進。1749/1月にイギリスに帰国。帰国すると、1743年に告発された事件の判断(無罪)は再び疑問視され、1750/2/3に再び軍法会議にかけられて過失の罪で有罪(2/7)となり、海軍将官の階級を剥奪されて全ての軍務から追放されました。1752年にジョージ2世が復活させて白色艦隊大将(admiral of the white)に昇進するも艦隊勤務はありませんでした。
余談、1740年にヘレフォードシャーのグッドリッチ城(Goodrich Castle, Herefordshire, England)を購入。ウェールズのモンマスシャーにあるニュートンコート市を建設して、そこのディクストン(Dixton, Newton Court, Monmouthshire, Wales)の土地も購入。アランデル(Arundel, West Sussex, England.)選出の国会議員(1754-1761)。1771年に亡くなり、ディクストンの聖ペテロ教会(St Peter's Church)に埋葬されました。
・グリフィン提督の生涯年表
 記  事 階級 船名 HMS, gns
1692 0 モンマスシャー州ディクストン 誕生
1709 17 商船に乗組み 船員 商船 merchant seaman
1715 23 海尉任官試験 合格
バルチック艦隊、艦隊勤務 候補生 ウェイマス号 Weymouth, 50
1716 24 ミッドシップマン パンサー号 Panther, 54
1718 26 地中海艦隊、パッサロ岬の海戦 少尉 オーフォード号 Orford, 70
1730 38 大尉、艦長 プリンセス・ルイザ号 Princess Louisa, 42
1731 39 東インド艦隊 艦長 ショアハム号 Shoreham, 48
1735 43 艦長 ブレナム号 Blenheim, 90
1738 46 艦長 オックスフォード号 Oxford, 54
1739 47 艦長 プリンセス・キャロライン号 Princess Caroline, 80
1740 48 東インド艦隊、カルタヘナの海戦 艦長 バーフォード号 Burford, 70g
グッドリッチ城 購入
ニュートンコート市 建設
1741 49 3月、ジェンキンスの耳の戦争 艦長 セントジョージ号 St George, 90
1743 51 東インド艦隊、ポーツマス在泊 艦長
1744 52 東インド艦隊、軍法会議 告発 キャプテン号 HMS Captain, 70
1745 53 東インド艦隊、軍法会議 無罪
1746 54 東インド艦隊、最高司令官 大佐、司令官
1747 55 3月、セントデイヴィッド要塞 補強
7月、東インド赤色艦隊 少将 プリンセス・メアリー号 Princess Mary, 60
1748 56 5月、東インド青色艦隊中将 中将
1749 57 1月、帰国 中将 エクゼター号 Exeter, 60
1750 58 12/3-7、軍法会議、過失罪、有罪 将官はく奪 離職
1752 60 ジョージ2世の計らい 中将 復帰
1754 62 国会議員、-1761 議員
1762 70 白色艦隊海軍大将 大将
1771 79 没、ディクストンの聖ペテロ教会に埋葬。
参考HP:〜
モンマスシャー州の場所地図(英国ウェールズ南東部)


・カルタヘナ・デ・インディアスの海戦
 (Sea Battle of Cartagena de Indias, 1741/3/13-5/20)
 (War of Jenkins' Ear, 1739-1748, Spain vs Britain)
 ・別名:フランス艦隊とイギリス艦隊との遭遇戦
  (The action of 6 July 1746)
 ・対戦:スペイン防衛艦隊 vs イギリス侵攻艦隊
 ・戦場:現コロンビアのカルタヘナ沖
 ・勝敗:スペインの勝利
カルタヘナ・デ・インディアスの海戦はイギリスのカルタヘナ・デ・インディアス攻撃で、イギリス遠征軍の海軍司令官ヴァーノン提督(Admiral Edward Vernon, 1684-1757)陸軍司令官ウェントワース将軍(Major General Thomas Wentworth, 1693-1747)と、スペインのカルタヘナ総督レゾ提督・ヌエバグラナダ副王エスラバ(Sebastian de Eslava, 1685-在任1740-1749-1759)との戦争で
提督ブラス・ド・レゾ総督

スペイン 1961 発行
イギリス軍が大敗。海戦は1741/3月にカルタヘナ・デ・インディアス市(現コロンビア領)攻撃で起こり、ジェンキンスの耳の戦争中の大規模な戦争となった。敗北したイギリス軍はおびただしい損害を出すも、戦死よりも疫病(特に黄熱病マラリア)による損害の方がはるかに多く、両軍とも疫病に苦しむ。

イギリス遠征軍の侵攻艦隊は124隻で戦列艦29隻、フリゲート22隻、病院船2隻と様々な種類の火船と臼砲艦(大砲計約2千門)に軍隊輸送船80隻、商船50隻。兵士は少なくとも27,400人、うち上陸軍12,000人。上陸軍は歩兵2連隊、新徴募海兵隊6,000人、アメリカ植民地軍ヴァージニア副総督グーチ大佐(Lieutenant Governor of Virginia Sir William Gooch, 1681-在任1727-1749-1751)連隊(Gooch's American Regiment, 1739-1742)4大隊約3,600人、輸送船40隻で北米から輸送。イギリス戦力:正規軍・海兵隊・民兵12,000人・英海軍水兵15,398人 計27,400-30,000人、戦列艦29隻・フリゲート艦22隻・輸送船ほか135隻、損害:死者9,500-11,500、負傷と病気7,500、大砲1,500門、戦列艦6隻全損、戦列艦17隻大破、フリゲート4隻と輸送船27隻全損。
英スの艦隊 戦列艦 フリゲート艦 その他 兵力 兵器
・イギリス, 186隻 29隻 22隻 135隻 侵攻軍30,000人 大砲数は約2千門
・スペイン, 6隻 6隻 --- --- 守備軍4,000人 要塞・砲台・沿岸砲多数
スペインのカルタヘナ守備軍は正規軍2,700〜3,000人、アラゴン連隊(Aragon Regiment)とエスパーニャ連隊(Espana Regiment)。1740/10月に到着のトレス提督連隊(Vice-admiral Torres Regiment)、リスボア連隊(Risboa Regiment)ナバラ連隊(Navara Regiment)カルタヘナ植民地連隊(Colonial regiment, Cartagena)他には人数不明の海員・民兵隊5中隊とインディアン射手(Indian archers)計4,000〜6,000人。この守備軍は戦列艦6隻と多くの要塞が有。スペイン戦力:正規軍2,700人・海兵隊400人・海員600人・民兵300人・現地人アーチャー(Indian archers)600人 合計3,000-4,000人、戦列艦6隻、沿岸砲多数、損害:死者800人、負傷1,200人、船6隻全損、要塞5所 、砲台3所。

スペイン防衛軍レゾ提督の計画は、多勢に無勢の状況では正面からイギリス軍を撃退することが不可能だったことから、戦いながら撤退して遅延戦術をとる、というものだった。4月末に雨季が始まるまで時間を稼げば、熱帯の豪雨で戦闘は2月間中断される。さらに、イギリス軍は狭い船上に留まるか野宿しなければならない状況なので、補給の不足、状況のつらさおよび疫病で消耗を強いられる。またヴァーノン提督とウェントワース将軍の不和で上陸後の戦闘で上手く連携できなかったこともスペインに有利に働いた。さらに、カルタヘナの防御工事は直近に修理・改善されて状態はほぼ完成に達していてレゾ提督の計画が成功した。

カルタヘナ港に入港できる唯一の入り口ボカ・チカだった。ボカ・チカは2つの半島の間にあり、その片側は大砲49門、臼砲3門、工兵長カルロス・デスナウクス(Carlos Desnaux)の駐屯軍300人を有するサンルイス砦(Fort St.Louis, Boca Chica)で守られていた。防材がラボンバ島(La Bomba)から大砲13門と兵士150人を有するサンホセ砦(Fort St.Jose)のある南側の半島まで伸びており、ほかには戦列艦6隻が港の入り口を守備。

@ボカ・チカのサン・ルイス砦への攻撃、1741/3/13-4/5
Aサン・ラサロ砦への攻撃(Fort San Lazaro)1741/4/6-4/16
Bイギリス軍のジャマイカへの撤退
 大損害で攻略ならず4/25撤退決定(67日間の遠征)5/7最後の攻撃。

<イギリス艦隊の編成>(推定)
戦列艦 HMS gns その他 HMS gns Memo
・カンバーランド Cumberland 80 ・スカーボロー号 Scarborough 24 Frigate フリゲート
・ボイン Boyne 80 ・エクスペリメント号 Experiment 20  ”
・グラフトン号 Grafton 70 ・ショアネス Sheerness 20  ”
・ケント号 Kent 70 ・ショアハム号 Shoreham 20  ”
・プリンスフレデリク PrinceFrederick 70 ・ライブリー号 Lively 20  ”
・ハンプトンコート号 Hampton Court 70 ・オター号 Otter 14 Sloop スループ
・バーフォード号 Burford 70 ・トリトン号 Tryton  ”
・サフォーク号 Suffolk 70 ・ボネット号 Bonetta  ”
・モンターグ号 Montague 60 ・フェトン号 Phaeton Fireship 火船
・ティルベリー号 Tilbury 60 ・ストロンボロ号 Strombolo  ”
・ウォーセスター号 Worcester 60 ・ヴェスビオ号 Vesuvius  ”
・チェスター号 Chester 50 ・コメット号 Comet  8 Bomb vessel 臼砲艦
・タイガー号 Tiger 50 ・オルダーニー号 Alderney  ”
・ノーウィッチ号 Norwich 50 ・プリンセスロイアル Princess Royal Hospital ship 病院船
・アシスタンス号 Assistance 50 ・スカーボロー Scarborough  ”
・アドヴァイス号 Advice 50 ・ポンペイ号 Pompey Tender 連絡船
・エルサム号 Eltham 40
・など。

雨季が到来してイギリス上陸軍は乗船しなければならず、狭い船上での生活を強いられたことで疫病がさらに蔓延した。4月25日、作戦会議においてジャマイカへの撤退が決定され、5月中には撤退が終わった。5月7日時点では執務できる兵員が1,700人しかおらず、うち上陸して敵軍と戦えるのは1,000人以下だった。カルタヘナから撤退して1月間のうち、1,100人が死亡した。イギリス軍は1,400人に、アメリカ植民地軍は1,300人にまで減った。遠征は67日間続き、イギリス艦隊が死者と戦闘不能者計18,000人(うち大半は疫病による)を出して敗北して撤退する結果に終わった。スペイン軍も疫病に悩まされ、レゾ提督自身も埋葬されなかった遺体から病気をうつされて数週間後に病死。さらに、イギリスの戦列艦19隻、フリゲート4隻、輸送船27隻(50隻)が失われた(大破、航行不能、人員不足での放棄船含む)。ボーナスとして、土地を与えられる、山ほどの金を得られる、といわれて参加したアメリカ植民地軍3,600人はその多くが黄熱病、赤痢で病死、果ては餓死した者がいる始末。故郷に戻れたのは300人だけ。その中にはローレンス・ワシントン(Lawrence Washington, 1718-1752)がいて、現アメリカ合衆国バージニア州アレクサンドリア近くのヴァージニア植民地にある自身のプランテーションをヴァーノン提督にあやかってマウント・ヴァーノン(Mount Vernon)と改名。イギリス軍の敗因は、総指揮官のカスカート卿(Charles Cathcart, 1686-1740)が赤痢で遠征の道中に病死した後、新しい総指揮官を任命できなかったこと。包囲用の大砲と弾薬をカルタヘナ近くで揚陸できなかったこと。ヴァーノン提督が戦列艦を歩兵の支援に使用しなかったことと、スペインのエスラバ副王やレゾ提督などの軍事行動が成功したことなど。
参考HP:〜
カルタヘナ・デ・インディアスの場所地図(現コロンビアのカルタヘナ)


・パッサロ岬の海戦
(Battle of Cape Passaro, 1718/8/11)イギリスの決定的な勝利
パッサロ岬の海戦はイタリアのシチリア王国パッサロ岬(Cape Passaro, Sicily island, Italy)沖で勃発した海戦。イギリスの初代トリントン子爵ジョージ・ビング提督艦隊(George Byng, 1st Viscount Torrington. 1663-1733)とスペインのアントニオ・カスタネータ(Don Jose Antonio de Gaztaneta, 1656-1728)フェルナンド・チャコン(Fernando Chacon)両提督艦隊の海戦。
シチリア島の場所地図

イタリア 19 発行
この海戦は、スペインと四国同盟(オーストリア・イギリス・フランス・ネーデルラント連邦共和国の4カ国)およびサヴォイア公国(当時シチリア王国)との間に、主にシチリア島沖付近で行われた戦争の四国同盟戦争(War of the Quadruple Alliance, 1718-1720/2/17)の宣戦布告がなされる4ヵ月前に開戦。
英スの艦隊 戦列艦 フリゲート艦 その他 司令官 乗艦
・イギリス, 28隻 22隻 ---- 6隻 ビング提督 バルフルール号
・スペイン, 42隻 15隻 11隻 16隻 カスタネータ提督 レアルサンフェリペ号
<英スの艦隊編成>:〜参加艦船名
・イギリス艦隊の編成:〜
 (British Royal Navy Squadron)
 司令官:子爵ビング提督(Admiral Sir George Byng)
イギリスの戦列艦
ヴァンガード号


ジブラルタル 2007 発行
イギリス艦隊(主力) 戦列艦(HMS) (Original Squadron)
・バルフルール号 Barfleur 90 旗艦
・シュルーズベリー号 Shrewsbury 80
・ドーセットシャー号 Dorsetshire 80
・ブレダ号 Breda 70
・バーフォード号 Burford 70
・キャプテン号 Captain 70
・エセックス号 Essex 70
・グラフトン号 Grafton 70
・ケント号 Kent 70 マシューズ艦長
・レノックス号 Lenox 70
・オーフォード号 Orford 70
・ロイヤルオーク号 Royal Oak 70
・カンタベリー号 Canterbury 60
・ドレッドノート号 Dreadnought 60
・ダンケルク号 Dunkirk 60 ドレーク艦長
・モンターギュ号 Montagu 60
・リッポン号 Rippon 60
・ルパート号 Rupert 60
・スペルブ号 Superb 60
・ロチェスター号 Rochester 50
・アーガイル号 Argyll 50
・チャールズギャレー号 Charles Galley 44
小艦艇 (smaller vessels) 6隻
・ガーランド号 Garland fireship
・グリフィン号 Griffin fireship
・サクセス号 Success storeship、補給船
・ルー号 Looe hospital ship、病院船
・バジリスク号 Basilisk bomb-ketch、爆弾ケッチ船
・無名船 unnamed bomb tender、爆弾船

・スペイン艦隊の編成:〜
 (Spanish Royal Navy Squadron)
 司令官:カスタネータ提督(Rear-Admiral Don Jose Antonio de Gaztaneta)
スペイン戦列艦

スペイン 1964 発行
スペイン艦隊(主力) 戦列艦 (Original Squadron)
・レアルサンフェリペ号 Real San Felipe 74 旗艦、捕獲、爆破、Superbe&Kent
・プリンシペデアストゥリアス号 Principe de Asturias 70 捕獲、Breda
・サンファンバウティスタ号 San Juan Bautista 60 逃亡、マルタ
・サンルイス号 San Luis 60 逃亡、マルタ
・サンペドロ号 San Pedro 60 逃亡
・サンカルロス号 San Carlos 60 捕獲、Kent
・レアルマジ号 Real Mazi 60 捕獲
・サンフェルナンド号 San Fernando 60 逃亡、マルタ
・サンタイサベル号 Santa Isabel 60 捕獲、Dorsetshire
・サンタローザ号 Santa Rosa 60 捕獲、Orford
・ペルラデエスパーニャ号 Perla de Espana 54 逃亡、マルタ
・サンイシドロ号 San Isidro 46 捕獲
・ハーマイオニー号 Hermione 44 逃亡、炎上、Messina
・ヴォランテ号 Volante 44 捕獲、Montagu & Rupert
・エスペランサ号 Esperanza 46 炎上
・ジュノー号 Juno 36 捕獲、Essex Frigate
・ソルプレサ号 Sorpresa 36 捕獲  ”
・ガレラ号 Galera 30 逃亡  ”
・カスティーリャ号 Castilla 30 逃亡  ”
・コンデデトロサ号 Conde de Tolosa 30 逃亡、捕獲、Messina  ”
・ティグレ号 Tigre 26 捕獲  ”
・アギラ号 Aguila 24 捕獲  ”
・サンフランシスコデアシス号 San Francisco de Asis 22 逃亡  ”
・サンフェルナンドメナー号 San Fernando Menor 20 逃亡  ”
・サンファンメナー号 San Juan Menor 20 逃亡、捕獲  ”
・フレチャ号 Flecha 18 逃亡 Frigate
・その他の小型船 (smaller vessels) 16隻
・爆弾船 bomb ships 3隻、臼砲艦
・火船 fireship 1隻、臼砲艦
・補給船、武器弾薬 store ship 1隻,ordnance
・補給船、通常型 store ships 3隻,ordinary
・セッテー船 settee 1隻
・ガレー船 galleys 7隻
参考HP:〜
ビング提督艦隊の図(於:イタリアのナポリ沖)
シチリア島の場所地図(パッサロ岬はシチリア島の南東端)

・ジェンキンスの耳戦争
 (War of Jenkins' Ear, 1739-1748, Spain vs Britain)
 ・別名:西インド諸島での英とスの植民地獲得の戦い
     欧州でのオーストリア継承戦争と連動
 ・対戦:スペイン防衛軍 vs イギリス侵攻軍
 ・戦場:カリブ海、フロリダ、ジョージア沖
 ・結果:アーヘンの和約締結
     戦争前へ原状復帰する
西インド諸島の地図

英領アンティグア 1958 発行
ジェンキンスの耳戦争は1739年に大英帝国がスペイン王国へ宣戦布告して勃発した戦争。
イギリスとスペインの海上覇権の争奪戦で、スペインに拿捕されて耳を切り落とされたというブリッグ商船レベッカ号(brig Rebecca)船長ロバート・ジェンキンス(Robert Jenkins, 1730-1740)に由来。そして新大陸から欧州のオーストリア継承戦争に拡大して欧州全土にわたる大戦になって1748年のアーヘン和約まで続き、1756年に始まる七年戦争に連なる契機となった戦争。
<各地での戦い>
アメリカ新大陸方面(Americas)
・ポルトベロの海戦
 (Portobello, 1739/11/20)パナマ、英vsス:英の勝利
・フォートモゼ砦の戦い
 (Seage of Fort Mose, 1746/6/26)ス領フロリダ、英vsス:スの勝利
・サン・アウグスティン包囲戦
 (Seage of St. Augustine, 1740/6/13-7/20)ス領フロリダ、英vsス:スの勝利
アンソン遠征
 (Anson expedition, 1740-1743)
カルタヘナ・デ・インディアスの戦い
(Cartagena de Indias, 1741/3/13-5/20)
・第1次サンティアゴ・デ・キューバの戦い
 (1st Santiago de Cuba, , 1741/8/4-12/9)
 サンティアーゴ・デ・クーバのエル・モロ城奪取ならず
 ・別名:キューバ侵攻(Invasion of Cuba)英vsス:英が疫病とゲリラで撤退
・パナマの戦い(Panama, ?)
・ジョージア侵攻(Georgia, 1742/4&7月)英領ジョージア植民地、英vsス:英の勝利
 ・ブラッディ・マーシュの戦い
 (Bloody Marsh, 1742/4/18)ジョージアのセント・サイモンズ島、英vsス:英の勝利
 ・ガリー・ホール・クリークの戦い
 (Gully Hole Creek. 1742/7/18)ジョージアのセント・サイモンズ島、英vsス:英の勝利
・ラ・グアイラの戦い、英vsス:スの勝利
 (Battle of La Guaira, 1743/3/2)ベネズエラ北バルガス州バルガス市ラグアイラ港攻撃
・プエルト・カベロの戦い、英vsス:スの勝利
 (Puerto Cabello, )ベネズエラ北部カラボボ州プエルト・カベロ港攻撃
・マティーナ(Matina, 1743/4/27-5/5)
・第2次サンティアゴ・デ・キューバの戦い、英vsス:スの勝利
 (2nd Santiago de Cuba, 1748/4/9)サンティアゴ・デ・キューバ港攻撃
・ハバナの海戦、英vsス:英の勝利
 (Sea Battle of Havana, 1748/10/12-10/14)ハバナ港沖の海戦
・ブランズウィック襲撃の戦い、英vsス私掠船:英の勝利
 (Raid on Brunswick Town, 1748/9/6)ノースカロライナ植民地ブランズウィックタウン
・など。
ヨーロッパ方面(Europe)
・プリンセサ号航海の海戦、英vsス:英の勝利
 (Action of 8 April 1740, 1740/4/8)スペインのフィニステレ岬
 英の戦列艦3隻がスの軍艦1隻を攻撃して拿捕
・フェルテベントゥラ島攻撃の戦い、英の私掠船vsス:スの勝利
 (Attacks on Fuerteventura, 1740/10/13、11/24)
 英の私掠船が2度にわたってカナリア諸島フェルテベントゥラ島を襲撃するも失敗
・サントロペの戦い、英vsス:英の勝利
 (Action of 14 June 1742, Saint Tropez)仏地中海沿岸カンヌ沖サンマルグリット島
 英艦隊が島の港でス5隻ガレー船を奇襲、中立仏サントロペ港でガレー船炎上
・マタロとパラモスの戦い
 (Mataro and Palamos, ?)
・トゥーロンの海戦(Battle of Toulon)、英vs仏ス:引分、英の撤退
 別名:シシエ岬の海戦(Battle of Cape Sicie, 1744/2/22、2/23)
・ヴィラフランカの戦い、サルデーニャ領ヴィッラフランカ・マリッティマ、現仏地中海沿岸
 (Siege of Villafranca, 1774/4/20)英vs仏ス:仏スの勝利
・グロリオーソ号航海の海戦(Glorioso campaign, 1747/7/25-10/19)
ス70門艦グロリオーソ号(Glorioso)と英小艦隊の海戦で、グロリオーソ号は新大陸から銀貨4百万ドルをスペインへ輸送中、アゾレス諸島とフィニステレ岬沖で英艦隊の攻撃を退け、スのガリシア州アコルーニャ県コルクビョン港(Corcubion)で積荷を揚陸後カディスへ向かう
 第一次(7/25)アゾレス諸島沖:スの勝利
 第二次(8/16)スペインのガリシア沖:スの勝利、コルクビョン港へ到着
 第三次(10/17)ポルトガルのサン・ヴィセンテ岬沖:スの勝利、カディスへ向かう途中
 第四次(10/19)サン・ヴィセンテ岬沖:英の勝利、大損害で降伏、英で解体
・スペイン護送船団襲撃の海戦、サン・ヴィセンテ岬沖
 (Action of 18 March 1748, 1748/3/18)英vsス:英の勝利
 英の戦列艦6隻がスの軍艦9隻護衛の商船隊17隻を攻撃して商船5隻を拿捕
・など。
ジェンキンズの耳とは、1738/3/17にイギリス議会下院へジェンキンス船長が出頭し、ブランデー漬けにした自分の片耳を議員たちに示して、これはキューバ沖でスペイン沿岸警備船に捕まったときに切りおとされたものだ、と説明して、スペイン人の残虐を訴えた。ところがジェンキンズが片耳を切られたのは、七年も前の1731/4月の話だった。ジェンキンス船長はそのことをひとことも言わなかった。議員たちは激昂して「アメリカ水域のいかなる地方にでも船を進めるのは、イギリス臣民の疑うべからざる権利である」と決議。これが国民の喝采を博し、翌年ウォルポール首相(Robert Walpole, 1st Earl of Orford, KG, KB, PC、1676-1745)は意に反して、スペインとの交戦を決意した。これがいわゆる”ジェンキンズの耳戦争”。
参考HP:〜
ジェンキンスの耳の戦争の場所地図(カリブ海でのイギリス軍とスペイン軍の戦い)
カンヌ付近の場所地図(サンマルグリット島サントロペはカンヌ(Cannes)沖に有)


こちらで
サフレン提督
切手コレクションの
フランスの王と王族 (肖像画)
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る 東海道五十三次
全米50州アメリカ
・世界で1番美しい 蝶々
世界遺産
富士山日本
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2006/7/25、09/10/10追記、令和 R.4/5/21(2022)
スタンプ・メイツ
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