冒険大航海 |
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★ポルトガル | メンデス・ピント(概略)
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大航海物語★ | |
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Portugal メンデス・ピント 1510 ピント生誕500年記念 2010 ポルトガル 2010/11/16 発行 |
MACAU メンデス・ピント ポルトガル領マカオ 1951/827 発行 |
海族との戦い |
中国で捕虜となる |
1580 メンデス・ピント没後400年記念 1980 ポルトガル 1980/6/30 発行 |
東洋遍歴記 中国のジャンク船 | ||
ポルトガル船 | 日本の武将 | |
コプラを踏みつける孔雀に乗るヒンドゥー教の女神 |
メンデス・ピントの大冒険の古地図 | ||
東洋遍歴記 |
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1614 東洋遍歴記出版400年記念 2014 ポルトガル 2014 発行 |
MOCAMBIQUE | |||
PORTUGAL 16世紀ポルトガル・カラベル船 ポルトガル 1943 発行 |
火縄銃を担う→ ポルトガル人 |
←火縄銃 ポルトガルの マスケット火縄銃 (Musket Rifle) |
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ポルトガル領モザンビーク 1967/1/12 発行 |
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SULTANATE of OMAN インド洋の地図 オマーン 1981/11/23 発行 |
琉球郵便 東南アジア、中国、日本の地図 日本 昭和38年 1963/9/16 発行 |
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ETHIOPIA エチオピアのマッサワ
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GRENADA 中国のジャンク船 グレナダ 1998/4/26 発行 |
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PANAMA 日本に来た南蛮船(ポルトガル・ナオ)の図 |
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パナマ 1968/5/7 発行 |
マレー半島南部 | |
←タイ領シンゴラ ←タイ領パタニ ←コタバル ←シンガポール ←マラッカ海峡 ←スマトラ |
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マレー 1957/5/5 発行 |
メンデス・ピントはポルトガルの冒険家で、彼の業績は没後の1614年に自伝「東洋遍歴記」 として刊行されました。1537年にリスボンを発ち、インドのディウに上陸。1539年にマレー半島のマラッカに行き、東南アジアをポルトガル使節・商人・海賊として見て回り、中国方面への貿易商を生業として、日本にも渡来。1544年に鉄砲を日本に初めて伝えた人物の一人と自伝に記述しています。 1551年フランシスコ・ザビエルが日本に教会を設立するための資金を提供。その後、ポルトガルに帰ろうと思ってインドのゴアまで戻って、1554年にザビエルの「未だに生きているかのような遺体」を目の当たりにして改心し、イエズス会に入会。1556年にルイス・フロイスらと共に日本へ渡りましたが、日本でイエズス会を脱退。1558年ゴアへ戻り、同じ年にリスボンへと出帆、帰国しました。 |
フェルナン・メンデス・ピント (1509年頃〜1583/7/8) Fernao Mendes Pinto メンデス・ピントはポルトガルのコインブラ県モンテモル・オ・ヴェリョ(Montemor-o-Velho、Coimbra district)で、貧乏な家に生まれました。少なくとも2人の兄弟と、2人の姉妹がおり、男兄弟のアルベロ(Alvaro)は1551年にはマレーのマラッカにおり、別の兄弟の一人はマラッカ(Malacca )で殉教しました。また、1557年にはコーチン(Cochin, India)に裕福な従兄弟フランシスコ・ガルシア・デ・ヴァルガス(Francisco Garcia de Vargas )がいました。 1521年12才の時に、余りの窮乏を見かねた叔父の一人がリスボンに連れて行き、ポルトガル王ジョアン2世(King John II )の息子でモンテモル・オ・ヴェリョの領主でもあったジョルジ公(Jorge, Duke of Coimbra)の所へ奉公に出しました。2年後に貴族のフランシスコ・デ・ファリア(Francisco de Faria)に奉公するためセトゥーバル県のセトゥーバル(Setubal、現リスボン都市圏の最南端にあるポルトガル第4の都市で、サド川の河口に有)に向けてリスボン港(Lisbon)を出帆しましたが、フランスの海賊船に襲われてポルトガル南部のアレンテジョ(Alentejo)海岸まで連れ去られ、置き去りにされました。海賊船はサン・トメ島から大量の砂糖と奴隷を積んで来たポルトガル船を分捕って、フランスへと去って行きました。そこの海岸で貴婦人の施しで一同が助けられ、ピントはセトゥーバルに行き、騎士フランシスコ・デ・ファリアの従者のもとで4年間働き、さらに騎士の部屋付き下男として1年半働きましたが、少ない給金での苦しい生活を改善するため、インド行きを決意しました。 ピントは28才で、ポルトガルが開拓していた東インドの香料貿易地域へと大航海に出帆しました。ピントはインド方面で、21年間に渡って大冒険をなし、ポルトガルに無事に帰国しました。帰国したピントはテージョ河々口付近南方のセトゥーバル県アルマダ(Almada)の近くにあるプラガル(Pragal)に隠居して「東洋遍歴記」(Peregrinacao "Pilgrimage", written in 1570)を書き残していました。それは没後31年後の1614年に出版されました。 メンデス・ピントの大航海:〜1537/3/11(28才) (1)インドへの大航海 ・ポルトガル、リスボンを5隻のナオ船で出帆 1)女王号〜ドン・ペドロ・ダ・シヴァ船長 2)聖ロッケ号〜ドン・フェルナンド・デ・リマ船長 3)聖バルバラ号〜ジョルジュ・デ・リマ船長 4)海の花号〜ロポ・ヴァス・ヴォガド船長 5)ガレガ号〜マツヒンス・デ・フレイタス船長 ・アフリカ、喜望峰を回航 ・アフリカ、モザンビークに寄航 ・インド、西海岸のポルトガル植民地のディウに到着 ・アフリカ、エチオピアの港町マッサワでポルトガル人傭兵隊と接触 ・紅海、海戦に敗れて捕虜となりイェーメンのモカで奴隷として売り飛ばされる ・アラビアをキャラバンで横断 ・ペルシア湾、ペルシャのホルムスでポルトガルの総督に救出される ・アラビア海でオスマン船隊との海戦に勝利 ・インド、ゴアへ戻る。 (2)インドから極東アジアへの大航海 ・インド、ゴアを出帆 ・マレー、マラッカ ・スマトラ島、小さな諸王国 ・トンキン湾 ・シャム(タイ)、アユタヤ ・中国、北京 ・東シナ海、中国の寧波(ねいは:ニンポー) ・日本、種子島 ・ジャワ、バンタ港でスパイスを買い付け ・ビルマ、マルタバンのビルマ、ドゥマク王国 などからインドへ戻る。 (3)インドから母国への大航海 ・アフリカ、喜望峰 ・ポルトガル、リスボンへ戻る:1558/9/22(49才)
・パタニ王国への航海
・中国での虜囚
その後、ピント達はタルタリア(Tatars、タタール)が中国へ侵略した時に連れ去られました。ピントやその仲間は砦を攻撃する方法をタタール人に教え、代わりに自由を勝ち取り、外交使節がコーチシナに行く時に同行するように王に命ぜられました。この旅の途中でポルトガル人の一行は、ピントが「ローマ法王のような人物」と表現するヨーロッパ人が未だ見たことのない人物に会ったと記述しています。これはダライ・ラマ(Dalai Lama)のことだと言われています。コーチシナ(Cochinchina)ではカンボジア(Cambodia)やヴェトナム(Vietnam)に寄航しました。
・日本への大航海 ピントはこの数年後、中国の寧波沖合いの双嶼島(リャンポー Ningbo、現:寧波)に到着しましたが、その地で、ポルトガル人貿易商達に日本の話をすると、商人達は日本との貿易に関心を持ち、ピントはこの商人達と日本へ向かうこととなりました。しかし、ピント達はその航海でも難破し、レキオ・グランデ(大琉球、Ryukyu Islands、現:沖縄島)にたどり着きましたが、持っていた交易品によって海賊と思われ、処刑されそうになりましが、ある身分の高い女性の取りなしで釈放されました。 1549年に鹿児島の港をを出帆する時には何らかの理由で追われていた逃亡者アンジロー(Anjiro、1511(永正8)頃〜550(天文19)頃)ともう1人の日本人をマラッカに連れて行きフランシスコ・ザビエルに引き合わせ、キリスト教に改宗させました。(ただし、ザビエルの伝記によるとアンジローと会ったのは1547/12月)。この後ザビエルはアンジローらと共にピントの日本への航海にゴアを出帆、日本に着くとピントと分れて、鹿児島に1549/8/15に上陸、カトリックを日本に伝えました。1551年にピントはザビエルに再会し教会を建設する資金を提供しました。その後、一緒にゴアへと出帆しました。ザビエルは中国への伝道に赴きましたが1552年に亡くなりました。ピントは1554年に今までに獲得した財宝を持ってポルトガルに帰国しょうとしましたが、ゴアで生きているかのようなザビエルの遺体を目の当たりにして改心し、イエズス会(Society of Jesus)に蓄えた巨額の財産を寄付して入会し、修道士となりました。 ・日本への最後の航海〜弘治2年(1556)4回目の来日で同年離日 1554年に日本の大名の大友義鎮から「洗礼を受けたいので宣教師をよこして欲しい」との手紙がゴアに届きました。ピントは1556年にルイス・フロイスと他の聖職者らと共に日本へ渡りました。このときの来日では豊後の大友氏との外交が樹立されましたが、大友家の諸事情により義鎮の改宗には至りませんでした。ただし、この22年後には義鎮は改宗。この日本への航海では、ピントはザビエルの後継者と共にポルトガルの正式な外交使節として豊後の大名に派遣され、日本に教会を建設しました。しかし理由は不明なるも、1557年にピントはイエズス会を脱会してゴアへと出帆し、日本を離れました。 ・マルタバンへの大航海 ピントがマラッカに戻った時に総督ペロ・デ・ファリアが、マルタバン(Martaban、現ミャンマー(Myanmar)のモン州モッタマ)に外交使節として赴くように命じました。その時マルタバンはブラマ(ビルマ Burma)と戦争中で、マルタバン包囲攻撃戦の真っ最中に到着して、ピントはブラマ王のポルトガル人傭兵隊のキャンプに避難しました。包囲攻撃終了時(1542年?)に、そこでポルトガル人に裏切られ、ブラマ王の官吏(ビルマ人 Burmese)の捕虜となりカラミニャム(Calaminham、現ラオスのルアンプラパン Luang Prabang)に連れて行かれました。ビルマがサヴァディ(Sandoway、現ミャンマーのサンドウェ)を包囲攻撃した時に、どさくさに紛れて逃げ出し、ゴア行きの船に乗り込みました。
その後、ジャワ人に自分達をマラッカに連れて行って売ってくれと頼んで、奴隷として自らを売りました。その後、ピントはセレブレ人(Celebes、現インドネシアのスラウェシ島の原住民)に売られ、その後にカラパ(Kalapa、現インドネシアのジャカルタ)の王に売り渡され、その王によって、ジャワの元いた所(Sunda)まで送り返されました。ピントは再びジャワを発ち、パタネ(パタニ王国)とシャム行きの船に、知り合いに借金して運賃を払って乗り込みましだ。 シャムに着くと、シャムのオディア(現タイのアユタヤ)の王(チャイラーチャー Chairacha、1534-1546)がシアマイ(現タイのチエンマイ)を攻めようと、ポルトガル人を傭兵として雇いました。それで、ピントも傭兵でシアマイ攻撃に遠征し、勝って帰ってきましたが、オディア国王の王妃シースダーチャン(Si Sudachan)が夫の留守中の浮気(小姓のブンシーとの)がばれるのを恐れて国王を毒殺しました。その後にこの妃は自分の息子をも殺し、ブンシーをウォーラウォンサー(Worawongsathirat、生年不詳-1548)として王位につけましたが、この王も即位から42日後に暗殺されました。この政情不安につけ込んだブラマ王(タビンシュエーティー、Tabinshwehti、1517〜在位1531〜1551、ポルトガル人傭兵隊を持つ)はアユタヤに攻め入りました。ピントの自伝「東洋遍歴記」に書かれている、このビルマの戦争の記述はこの時代の西洋人によるビルマの一番詳細な史料となっています。
参考:〜
1543年(日本暦天文12)ともされる日本への鉄砲伝来にも関っていたとも言われ、王直の乗るジャンク船がアユタヤを出航し、双嶼に向かっていたところ、大嵐で遭難して種子島へ漂着、同乗していたポルトガル人が日本に鉄砲を伝えたとされる。また、豊後国の戦国大名である大友宗麟とも接触をもったと考えられている。 朱丸の死後に倭寇の取締りは一時的に弱まるが、兪大猷らが新たに赴任し、56年には胡宗憲が浙江巡撫に就任する。胡宗憲が総督に就任すると倭寇の鎮圧は本格的に開始され、57年に王直は官位をちらつかせた明の誘降に乗って舟山列島の港へ入港し、1559年12月に処刑された。 こちらで ・テオドロス2世 (Tewodros II、1818〜在位:1855〜1868/4/13) をお楽しみください。 参考HP:〜 ・ポルトガルの地図 ・ディウの場所地図 ・ゴアとディウとホルムズの場所地図 ・エチオピア、イェーメン・モカ、イラン・ホルムス付近の地図 ・イェーメン(モカ)の地図 ・マレー半島の場所地図 ・南シナ海および現在の近隣諸国の場所地図 ・東シナ海の場所地図 ・日本の場所地図 ・ビルマ(ミャンマー)の場所地図 上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/9/9、14/10/20、2017/2/26 |