Netherland

国連 1989 発行
切手で綴る 蘭英戦争(Naval Battle Voyages) オランダ海軍の提督 No.19
ピート・ヘイン提督    
オランダ西インド会社
マタンサス湾の海戦
オーステンデ私掠船
1623
1628
1629

大航海物語
 オランダ編

NEDERLAND
Rヘイン提督

オランダ 1943-44 発行

JERSEY
英仏海峡の地図

ジャージー 1970 発行



NEDERLAND
オランダの地図

オランダ 1972 発行

REPUBLICA DE GUINEA ECUATORIAL
海戦の図

赤道ギニア 1975 発行

ヘイン提督は20才頃にスペインの捕虜になりガレー船の漕手で4年を過ごして捕虜交換で釈放された後に船長となって巨万の富を築きました。44才頃にオランダ西インド会社の役員になり、47才頃にサンサルバドールで22隻のポルトガル船を拿捕。49才でマタンサス湾の海戦に勝利してスペイン宝物船団を捕獲。その戦利品は4百万ダカットで、これがオランダ共和国南部のスペイン領オランダ(現ベルギーとルクセンブルク)の支配をめぐってスペインとの戦いの戦費を得ることができたといわれています。その後に退役する予定なるも、1629年にオランダ中将として呼び戻されてオランダ共和国全艦隊の指揮を任されました。1629/6/18にスペインの北海ダンケルク海賊を一掃するよう命じられて海賊を撃破するも戦死しました。
蘭提督ピーテル・ピーテルスゾーン・ヘイン中将R(通常はピート・ヘイン提督(Piet Heyn)と呼ばれる)
(Dutch Luitenant Admiral Pieter Pieterszoon Hein, 1577/11/25-1629/6/18, 仏ダンケルク近く51才戦没)
ヘイン提督はオランダの南ホラント州デルフスハーフェン(Delfshaven:現ロッテルダムの一部:Rotterdam)で船長ピーテル・コルネリスゾーン・ハイン (Pieter Corneliszoon Hein, ?-1623) とニールトゲン・クラーシュ(Neeltgen Claeszdochter)の娘の息子として生まれて、オランダ独立戦争(八十年戦争, 1568-1648)と第一次蘭英戦争(1652-1654)に従軍したオランダ共和国(Dutch Republic, 1579-1795)の海軍提督でした。また、ヘイン提督は1628年のスペイン領アメリカからスペインへ大量の金銀を輸送していスペイン宝物船団(Spanish treasure fleet, 1492-1640)の大部分を捕獲した最初の人物ともいわれて、その時に銀の捕獲量が多すぎたために世界中で銀の価格が高騰してスペインはほぼ破産状態に陥ったとも語り継がれています。

・幼少期・監禁時代(ガレー船漕手)
(Childhood, Captivity time)
ヘイン提督の若い頃については、読み書きを学んだことと、3人の弟ヤコブ(Jacob)・シモン(Simon)・コルネリス(Cornelis)がおり、全員商人になったこと以外はほとんど知られていません。10代で船乗りになって最初の
航海中に極度の船酔いに悩まされたといわれていますが、20代のとき、1598年に父親と共にスペインで投獄されて、スペイン領蘭ゼーラント州スロイス(Sluis, Zeeland Province)の近くにあるアンブロシオ・スピノラ(Ambrosio Spinola, 1569-1630)の艦隊にガレー船の奴隷(漕ぎ手)として配備され、1602年に捕虜交換で釈放されました。この奴隷の経験で奴隷制度に批判的なったといわれています。1603年にオランダ東インド会社(VOC, 1602/3/20-1799/12/31)のクライネ・ネプチューン号(Kleine Neptunus)船長だったヘイン提督はキューバ近郊でスペインに再び捕らえられ、ハバナの要塞に 奴隷漕手のガレー船

スペイン 1964 発行
投獄されました。それは祖国では不明だったため、VOC商人ヤン・ミーアマン(Jan Gerritszoon Meerman)は、1605年にキューバへの貿易航海の時にワッセンデ・メーン号(Wassende Maen, 480tn)の船長に特別な情報を収集させましたが、1607年にヘイン提督がオランダに戻って来るも、何時どのようにして戻ってきたのかは定かではありません。

・モルッカ諸島へ遠征
(Expedition to the Moluccas, 1607-1612)オランダ東インド会社(VOC)
1607年末にオランダ東インド会社(Dutch East India Co., 1602-1799, VOC)に入社して、スパイス貿易のピーテル・フェルヘフ提督船団のホーランディア号(Hollandia)に航海士(Mate)として乗組んでモルッカ諸島(Moluccas)へとオランダを出帆しました。その艦隊には商人ヤン・ピーターゾーン・コーエン(後の総督)や、日本平戸へ向かう途中だったジャック・スペックスなどと、ポルトガル船がモザンビークに入港するのを阻止し、ゴア港を封鎖し、コルネリス・マテリーフ・デ・ヤンガーが以前失敗したマラッカ征服を再度試みるために兵士約750人が乗船していました。

1609/4月にヘイン航海士はモルッカ諸島バンダ・ネイラ島(Banda Neira Island)に到着。VOCはバンダ人が自国の製品をオランダ人にのみ販売できるようにスパイス貿易を独占することを目指して、貿易の拠点となる要塞(Fortress)を建設したいと考えました。ところが1609/5月末にフェルヘフ提督が暗殺され、報復でバンダ島の村々が略奪・放火されました。6/15にはバンダ島カンポン・レベタケ村(Kampong Lebetakke)がオランダによって完全に虐殺されました。ヘイン航海士は当時まだ軍務についていなかったため、これら陸上攻撃には関与していませんでした。1609/8月にVOCに有利な和平が締結され、バンダ人はスパイス貿易におけるオランダの権威と独占を認めました。フェルヘフ提督船団は東インド諸島での活動中に多くの乗組員と モルッカ諸島の場所地図
インドネシア 1980 発行
兵士を失ったので、多くの船員が昇進。1610年にヘイン航海士はホーランディア号(Hollandia)の船長になりました。1610/3〜11月にヘイン船長はアンボネ人と交渉し、最終的に大量のクローブを70レアル(reals)で購入することに成功しました。1611年初めにヘイン船長は軍事行動に参加。その後、バンダ・ベサール(ロンタール)島(Banda Besar (Lontar) Islands)とラン島(Run Island)に対する2度の懲罰遠征を実施。その後バンダ・ネイラ島にベルギカ砦(Fort Belgica)を建設するよう命じられました。これはバンダ諸島で3番目の VOC 要塞になりました。1611/5月に貴重なクローブ(10万ギルダー相当(2019年換算100万ユーロ(約13,500万円)以上)を積んでオランダへ向かうも、クローブが熱くなり始めたため、火災を防ぐためにアゾレス諸島に補給で寄港した時、船外に投げ投げ捨てなければなりませんでした。1612/6月にオランダを離れてから4年半後にオランダの北ホラント州テクセル島沖にあるレーデ・ファン・テクセル港(Rede van Texel Port)に帰港しました。ヘイン船長とVOCとの契約内容は不明なるも更新されませんでした。それは、安全対策でクローブを船外に投げ捨てたことが、VOC会社にとっては容認できない経済的損失だったのだろうといわれています。

・ヴェネツィア遠征
 (Venetian Expedition, 1612-1623)
帰国後、ヘイン船長はロッテルダムに定住し、1612年にアネケ・クラエス(Anneke Claes)の娘で、1611年にモルッカ諸島で亡くなった12才年上の同僚ヤン・デ・ウィス(Jan de With)未亡人レウス(Reus)と結婚。
ヘイン船長は倹約家で、1613年には自分の船、スファエラ・ムンディ号(Sphaera Mundi)を所有していて、1614年にルーヴェハーフェン(Leuvehaven)に大きな家を 2900ギルダーで購入するほど裕福でした。
1617年にネプトゥヌス号(Neptunus)の船長となり、翌1618年にそのネプチューン号(Neptune)でヴェネツィア(Venice)に到着したとき、ヘイン船長は船と乗組員と共にヴェネツィア政府(Republic of Venice, 697-1797)に採用されて、シチリア(Sicily)のナポリ王国(Naples Kingdom, 1282-1816)との紛争で戦うことになりました。ヴェネツィア共和国はオーストリアのハプスブルク家(Habsburg, 1282-1918, シェーンブルン宮殿)・スペイン・ハプスブルク家クロアチアの非正規兵士ウスコク(Uskok)の攻撃で深刻な被害を受けていました。ヘイン船長はアドリア海 シェーンブルン宮殿

国連 2006  発行
(Adriatic Sea)でスペイン艦隊やウスコク私掠船などと戦って、1621年に船を降りて陸路でオランダへの帰途につき、1623年にロッテルダムのデルフスハーフェン地区(Delfshaven)に戻りました。帰国後にヘイン船長の妻の従兄のロッテルダム市長(Rotterdam Mayor)アブラハム・デ・レウス(Abraham Janszoon de Reus, c1570-1637)がヘイン船長に市会議員の職を与えてヘイン船長は1年間誠実に義務を果たしました。

・オランダ西インド会社
(Dutch West India Company(WIC)1623-1792)
1623年に新しく設立されたオランダ西インド会社(Dutch West India Company, 1621/6/3-1792/1/1)の取締役ヘーレン19人会(Heeren XIX)は、1623/10月にスペイン大作戦計画(Great Desseyn:スペインが十分な資金を集められないようにするためにアフリカとアメリカ大陸におけるイベリア連合のポルトガル・スペインの所有物を強奪する計画)を考案しました。計画は、まずポルトガル植民地ブラジル(Portuguese Colonial Brazil, 1500-1815)の首都サン・サルバドル・ダ・バイア市(Sao Salvador da Bahia:サルバドール, Salvador)を占領。次にアンゴラ海岸のポルトガルの主要要塞であるサンパウロ・デ・ロアンダ(Sao Paulo de Loanda:ルアンダ, Luanda)を占領することでした。
西インド方面の地図

シントマールテン2011発行
このようにして、同社はブラジルの儲かる砂糖農園と大西洋の奴隷貿易の両方を支配することになるもプランテーションの過酷な環境やマラリアなどの熱帯病による高い死亡率のため取引自体の管理が必要になりました。

1623/11月にヘイン船長は西インド会社(WIC, 1621-1792)に入社。ヘイン船長はブラジルのサルバドール市を攻撃するよう命じられ、スペインとポルトガルの商船を攻撃する許可をオランダ総督(States General of Netherlands)から得ていたので、敵勢力に属する船舶を拿捕して勲章を与えられました。

ヘイン船長はWICのために3回の遠征を指揮しました。12年間の休戦の後、戦争はオランダにとって非常に悪い結果となるも、ポルトガル植民地ブラジルはかつてないほど繁栄しました。三十年戦争(Thirty Years' War, 1618-1648)でオランダはドイツ後背地から切り離され、1625年に北ブラバント州ブレダ(Breda)は失われました。ハプスブルク家は北ドイツのシュレースヴィヒ ホルシュタイン州リューベック港(Lubeck, Schleswig-Holstein)から私掠船団を運用しており、衰退するオランダ経済は崩壊寸前であると懸念されていました。これに応じて、南ホラント州デルフト(Delft)が決定した敵の根源であるアンゴラ(Angola)とギニアビサウのカシュー(Cacheu)を攻撃し、奴隷の供給を ブレダの開城

スペイン 1959  発行
遮断する計画が立てられました。1625/10/30の新たな計画ではまず強いブラジルのバイーアを攻撃することにしていました。

・最初の遠征
 (First Privateer Expedition, 1624-1625)
 (ブラジル&アンゴラ)私掠船の海賊活動
ヘイン船長は1623/11/2にジェイコブ・ヴィレケン提督(Admiral Jacob Willekens, 1564-1649)の下で中将(Vice Admiral)に任命されました。1624/5/8に船団26隻がブラジルの新興ポルトガル植民地の首都サン・サルバドル・ダ・バイア・デ・トドス・オス・サントス (Sao Salvador da Bahia de Todos os Santos:現バイーア、Bahia) に到着。 まさにその翌日、ヘイン提督は自ら率いて水兵たちによる都市の海堡襲撃を成功
ブラジルの場所地図

エクアドル 1961 発行
させました。防御は崩壊し、街は戦わずして一日で兵士の上陸軍に陥落・占領されました。

1624/7/28にヴィレケン提督はほとんどのオランダ船とともにサン・サルバドル・ダ・バイア島をオランダへ向けて出帆。1624/8/5にオランダ艦隊7隻でバイア島をポルトガル植民地アンゴラのサンパウロ・デ・ロアンダ(Sao Paulo de Loanda:ルアンダ、Luanda)へと出帆。アンゴラは当時、奴隷の主要輸出港でした。オランダは奴隷貿易を阻止することで、アメリカのプランテーション農業全体を麻痺させることを望んでいました。1635年まで、WIC自体は輸送には従事するも、WIC委員会による調査の後、当初は非倫理的であると考えられた奴隷貿易には従事していませ アンゴラの場所地図

マラウィ 1985 発行
んでした。ヘイン提督は、その場所の北に有って、以前すでに都市に無駄な攻撃を行っていたフィリップ・ファン・ザイレン元帥(Marshal Philip Julius van Zuylen van Nijevelt, 1743-1826)率いる別の艦隊3隻を逃したため、1624/10/30に自ら都市を攻撃することを決定するも、ザイレン元帥のそれまでの活動で、ルアンダは大幅に強化されていたため、この攻撃は失敗に終わりました。

1624/11/21、ヘイン提督はルアンダ封鎖を断念し、コンゴ王国(Kongo Kingdom, c1400-1888)との接触を試みるも無駄に終わりました。コンゴ王国は以前、ポルトガルと同盟を結ぶ意向を示して和解していることが判明しました。ヘイン提督は1625/2/2にサンサルバドール市に向けて再び出帆するも、1625/4/18サンサルバドールを包囲していたスペインの初代バルドゥエサ侯爵ドン・ファドリック・デ・トレド(Don Fadrique de Toledo, 1st Marquess of Valdueza, 1580-1634)の艦隊の存在に驚愕。ヘイン提督は市の救援に来るには余りにも弱すぎて、再征服のことは知らずにオランダから5週間後の1625/5/26に到着したブーデワイン・ヘンドリクス提督(Admiral Boudewijn Hendricksz, 1626没)の補助艦隊を見つけることができませんでした。1625/5/5にヘイン提督はサンサルバドールが陥落したことを知り、船でオランダへと戻りました。その結果、補助艦隊もサルバドールを奪還できるだけの戦力はありませんでした(サンファンの戦い, 1625/9/29)。

サルバドルは包囲攻撃戦の末、1625/4/30にスペイン艦隊に降伏。ヘイン提督は1625/7月にオランダ到着・帰国。1625/8/9にオランダ総督オラニエ公フレデリック・ヘンドリック(States General Frederik Hendrik van Oranje, 1584/1/29-在位1625/4/23-1647/3/14)に報告して、金メダル(gold medal)付きの名誉の金鎖(Gold Chain of Honor)を拝受。同年、画家ヤン・デーメン・クール(Jan Daemen Cool, 1589-1660)に肖像画を描いてもらいました。幾つかの複製が未だにあります。

・2回目の遠征
 (2nd Privateer Expedition, 1626-1627)
2回目の遠征では、ヘイン提督は1626/3/28にWICによって西インド諸島の総司令官ブーデワイン・ヘンドリクスゾーン提督(Boudewijn Hendrickszoon,1626/7/2 (Cabanas,Cuba) カバニャス病没)の隷下でアメリカにおけるオランダの活動すべての最高指揮官に任命されました。1626/5月にヘイン提督は総司令官を補助する艦隊9隻を率いてキューバへ向かい、そこにいたヘンドリクスゾーン提督の主力艦隊と合流しました。1626/8/27にヘンドリクスゾーン提督の訃報(ふほう:Pass Away Messages)を受領しました。ヘイン提督はオランダの全ての艦隊がそこで団結してスペイン宝物艦隊を迎え撃つことを期待してフロリダの南端に移動。
フロリダ半島

USA 1947 発行
1626/9/9にスペイン宝物艦隊が航海してくるも、ヘイン提督のオランダ艦隊はまだ強化されていなかったので「見逃すほかなかった」と報告しなければなりませんでした。

1626年にヘイン提督はウィレケンス提督(Jacob Willekens, 1564-1649)と共にブラジル南東部リオデジャネイロ(Rio de Janeiro)攻撃の成功にも参加することになるも、誰が指揮を執るかをめぐる論争の後、両者は袂を分かち、ウィレケンス提督はアムステルダムへと出帆しました。

ヘイン提督は他の艦隊と連絡がとれなかったためにブラジルのサンサルバドールへ向けて出帆しました。季節的な卓越風(Prevailing winds)のため、大きな迂回が必要となって艦隊は、まず北へ航行してアゾレス諸島に戻り、1627/1月にシエラレオネに到着。1627/1/19にそこをブラジルへと出帆。大西洋を横断し、1627/2/25にブラジル海岸が視界に入りました。9隻の艦隊ではサルバドール港を奪還するには弱すぎるも、港外に停泊して
いたポルトガル艦隊26隻を攻撃し、9隻を拿捕して残りの17隻は炎上しました。戦利品には砂糖の入った箱2,564個と皮1,172枚などが有りました。アンゴラから到着した奴隷船2隻も拿捕して、奴隷達はバイーア州サルバドールのイタパリカ島(Itaparica island, Salvador, Bahia, Brazil)で解放されました。ヘイン提督の旗艦アムステルダム号が砂州で立ち往生して夜に砦から船の残骸を撃ち抜かれたため、乗組員は敵の手に落ちるのを防ぐために自ら放火・炎上させました。この戦いでヘイン提督はマスケット銃(Musket Rifle)で左腕を撃たれて負傷しました。ヘイン提督は柑橘類(citrus fruits)が見つからずに、壊血病の治療ができなかったことを悔やんだといわれています。 マスケット銃を担う兵士

モザンビーク 1967 発行
その後、ヘイン提督は艦隊(Fleet)を分割し、さらに南のさまざまな戦艦隊(Squadrons)で、ブラジルのさまざまな港を襲撃しました。1627/6/10-6/18にヘイン戦艦隊は、再びサルバドールを攻撃し、小川に隠れたポルトガル船に対してスループ艦で攻撃。再び豊富な砂糖の戦利品を奪取しました。1627/8/25にヘイン提督は他の5隻の船を伴い計13隻でホーランディア号にてオランダへの帰国を開始。1627/10/26にヘイン提督が突然アムステルダムのWIC議場に現れて直ちに帰国を報告しました。ヘイン提督は再びオランダ総督オラニエ公から「栄誉の金鎖」を拝受して、地図製作者で彫刻家ヘッセル・ゲリッツ(Hessel Gerritz、c1581-1632,アムステルダム没) が特別な記念版画を製作したにもかかわらず、前回同様にヘイン提督の功績に対する世間の関心は大きくありませんでした。

・3回目の遠征
 (3rd Privateer Expedition, 1628-1629)
3回目の遠征は総司令官ヘイン提督と、副司令官で年上のオランダ人として初めて新大陸に到達した船長の中将ヘンドリック・ロンク提督(Lieutenant Admiral Hendrick Lonck, 1568-1634710/10)の指揮の下に、1628年にオランダ(WIC)は3つの艦隊を新大陸アメリカ方面へ派遣しました。
・ディルク・ウィトゲースト提督艦隊
 (Dirck Symenszoon Uitgeest)は12隻でブラジルを攻撃。
カリブ海の地図

英領アンティグア 1958 発行
・ピーテル・イタ提督艦隊(Pieter Adriaenszoon Ita)はカリブ海とブラジル沿岸を攻撃。
・ヘイン提督艦隊はスペインへ向かうスペイン宝物艦隊を襲撃する。
ヘイン提艦隊の旗艦はアムステルダム号(Amsterdam, 50gn)で、艦長はワイズ艦長。他にエイドリアン・バンケルト中将(Lieutenant Admiral Adriaen van Trappen Banckert, c1615-1684/4/22)の父でWICゼーラント会議所(Zeeland Chamber, WIC)のヨースト・ファン・バンケルト中将(Vice Admiral Joost van Trappen Banckert, c1597-1647/9/12)を随伴して、1628/4/13に銀・藍・コチニール(Cochineal:赤い染料)などを積んでスペインへ向かうスペイン艦隊を襲撃するという明確な目的を持って、31隻の船と兵4,000人を率いて出帆しました。スペインの災難(scourge of Spaniards)と呼ばれていたヘイン提督・ワイズ提督・バンケルト提督のこれらの海戦は幸運に恵まれて成功しました。ペルーからスペインへ銀を運ぶ南米のテラ・ファーマ艦隊(Terra Firma fleet)はヘイン艦隊がその地域にいることが明らかになって港に留まりました。メキシコのセント・ジェームス艦隊(St James's fleet)は警告が間に合わずキューバに向かうと、そこで嵐で一部がハバナ付近で待機していて帰ろうとしていたオランダ艦隊の方へ向かってマタンサス湾の海戦(1628/9/7)が勃発し、翌9/8にヘイン提督艦隊はスペイン船15隻を戦わずして拿捕しました。遠征全体を通じてヘイン提督艦隊の損害は病気と脱走で失った150人でした。1628/9/17にヘイン艦隊はオランダへの帰国のために出帆。先頭のサロモン・ウィレムゾーン艦長(Salomon Willemszoon)のオイエヴァール号(Ooievaar)は猛スピードで航海して1628/11/15にロッテルダムに到着。翌日、艦長はオランダ総督オラニエ公に報告すると、大喜びで金メダル付の名誉金鎖(Gold Chain of Honor)を授与しました。

ヘイン提督はオランダとイングランドとの援助条約で陸揚げした皮革の積荷に対して輸入税を支払わなければならないかどうかについての外交上の論争でイングランド南西端コーンウォール州南海岸ファルマス港(Falmouth harbour)に立ち寄り、1629/1/3にファルマス港を出帆。1629/1/9に南ホラント州ゲーリース・ガット(Goereese Gat)に帰港。帰国後、彼は北ホラント州の首都アムステルダム、同州ハールレム(Haarlem)、南ホラント州ライデン(Leiden)ではライデン市庁舎の階段で熱狂的な群衆から拍手を受け、英雄として大歓迎されました。多くの宴会や公の祝賀会が開催され、花火による公の祝賀行事がさらに盛り上がりました。この勝利がどれほど偉大なものであったかを全世界に明らかにするために、すべての国境の町と大使館は祝賀することが義務付けられるほっどでした。1629/2月にはオランダ総督オラニエ公から金の名誉の鎖を受け取りました。

WICの株主は50%の配当を受け取り、株価格はさらに225%上昇しました。WICの理事エレン19人は共同で利益の1%を受け取り、オランダ総督は10%という巨額の報酬を受け取りました。ヘイン提督は月給約350ギルダーでしたが賞金6,000ギルダーを受け取りました。乗組員はわずか17ヵ月分の賞金だけでした。ヘイン提督には金銭で支払うか赤い染料コチニールで支払うかの選択が与えられて現金を選択するも、直後に彼の行動のせいで赤い染料の価格が急騰していることに気づき、結局現物で支払うよう求めました。これは拒否されました。乗組員の多くのは不当な扱いを受けていると感じて、アムステルダムのWIC事務所は襲撃され、ヘイン提督は人々が自分や妻に補償を求めて脅迫されることを恐れていました。

・オーステンデ私掠船団との海戦で戦死
 (Oostende privateers, 1629/6/18)
1629/3/16にヘイン提督とWICヘレン19の間に和解しがたい相違が生じていることをオランダ総督オラニエ公が気づいて、直ぐに調停委員会が任命されるも、調停委員会は1629/3/21にヘイン提督が、月給1,500ギルダーとアムステルダム海軍本部の長官になるという法外な要求のせいで交渉は決裂して、ヘイン提督はWICを辞任しました。1629/3/26ロンク提督がWIC総督(Governor-General)
英仏海峡の地図
の後継者に任命されると、同日ヘイン提督はオランダの海軍中将(Lieutenant Admiral)としてオランダ共和国に呼び戻されました。ヘイン提督は初の非貴族提督でアムステルダム海軍本部の副司令官の後継者として南軍艦隊(Confederate fleet)の司令官となりました。ヘイン提督は海軍統治を改善するための10項目の計画を直ちに提出するも、その改革案の多くは五大海軍省(Five Admiralties)によって拒否されました。ヘイン提督は南ホラント州デルフトに引っ越しました。

1629/5/29にヘイン提督はダンケルク私掠船(Dunkirk privateers)に対抗するため、フリーヘンデ・グルーネ・ドラエック号(Vliegende Groene Draeck)に座上して艦隊を率いて南ホラント州ヘレヴォエツロイス(Hellevoetsluis)を出帆するも、私掠船団は未だ出帆していないことが判明。1629/6/17にベルギーのフランドル地方ウェスト=フランデレン州西フランドル県オステンド港(Ostend, West Flemish prefecture, West Flanders province, Flemish Region, Belgium)のオーステンデ私掠船3隻を迎撃。その海戦でヘイン提督はオーステンデ私掠船2隻、ジェイコブ・ベサージュ提督(Admiral Jacob Besage)と別の中将(Vice Admiral)の私掠船船との間に自分のフリーヘンデ・グルーネ・ドラエック号を滑り込ませ、両方に同時に完全な打撃を与えるも、私掠船の8ポンド砲弾が左肩に当たって戦死するという最悪の結果に終わりました。それでもオランダ艦隊が戦いに負けずに成功したのは、提督旗艦の艦長トロンプ提督の功績でした。私掠船2隻が捕らえられ、乗組員はトロンプ提督の命令でその場で絞首刑にされました。同じ戦いで戦死したオーステンデ私掠船船長ベサージュ提督の遺体を乗せた3隻目の私掠船は、大破してオステンド港に帰還しました。ヘイン提督は1629/7/4にデルフトの旧教会に盛大に埋葬され、後の1870年にヘイン提督の像がロッテルダムのデルフスハーフェン区(Delfshaven)に設置されました。

参考HP:〜
スペイン宝物船団の航路地図(白線:西回り:マニラガレオン航路、青線:東回り)
パンダ諸島の地図(Panda Islands)
卓越風の地図(卓越風(Prevailing winds)の風配図:ウインドローズ、Wind rose)
テクセル島の場所地図
オランダの地図(1672)
オランダ最大版図の地図(19世紀)
オランダの地図(現在、水面下を示す図)
ジャワ島の場所地図(インドネシアの地図)
ジャワ島の地図(地勢図)
ジャワ島バンタムの場所地図(西部にBantem・Jakarta有)

こちらで
蘭英戦争(1652-1674)
第1次蘭英戦争(1652-1654)
第2次蘭英戦争(1665-1667)
第3次蘭英戦争(1672-1674)
第4次蘭英戦争(1780-1784)
マゼラン (海峡)
スパイス (香辛料)
コーヒー (嗜好飲料)
ラッコ(絶滅危惧種)
クリッパートン島(絶海の孤島)
カリブ海の地図(島国シリーズ)
フランスの王と王族(ブルボン朝)
切手コレクションの
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る東海道五十三次
全米50州アメリカ
・世界で1番美しい 蝶々
・ギリシャの民族衣装
・スペインの画家ゴヤ
世界遺産
フランス
法隆寺日本
ヌビア遺跡エジプト
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿ギリシャ
モヘンジョダロパキスタン
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和5年 2023/9/23
スタンプ・メイツ
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